『ケアするのは誰か? 新しい民主主義のかたちへ』ジョアン・C・トロント著 岡野八代訳・著

 権力者であることは、自分をケアしてくれる誰か他のひとがいることを意味しています。……ケア活動という観点からみれば、権力者であるとは、ケアをめぐる嫌な部分を他者に押し付け、自分にとって価値があると考えるケアの義務だけを引き受けられることを意味します。

トロント、p. 36)

 

メモ:トロントが提唱する新しい民主主義の理念は「共にケアすること」。そうして、ケアの倫理を通して政治理論、また民主主義を開き、鍛え上げることを説く。

 

……わたしたちが平等化しなければならないものは、ケア提供という行為そのものではなく、ケアに対する責任であり、そしてその前提条件として、いかにその責任が[社会の中で]配分されるべきかについての議論なのです。

トロント、p. 39)

 

メモ:大学で教え始めた80年代にトロントが「フェミニストの悪夢」と名づけた問題とは、女性がより幅広い地位につくことができるようになった一方で、これまで白人中産階級の女性たちが担ってきたケア負担を、より経済的に貧しい有色女性、移民女性や男性に担わせることになったこと。

(p.86)

 

 そして、フェミニズムにとってより重要なのは、ケア実践があくまで個別的であり、その実践が閉じられた親密圏を形成しがちであるからこそ、そこに――一般的な親密圏のイメージとは逆に――暴力や搾取の問題が惹起しやすいことを認識し、より良いケア関係を築くための社会的基盤を構想することである。たとえば、産みの母は、その子に献身的にケアをすべきだという一般的な規範が、たとえあり得たとしても、じっさいにはその母の稼ぎに他の家族が頼っていたり、彼女にはケアに足る資力がない場合もある。言うまでもなく、なぜ母なのかという問いは、解決されないまま残るだろう。トロントにとって、この個別性をめぐる問題は、むしろ、より広い政治的な問題へと接続されなければならない。つまり、現在のわたしたちが、非常に狭い範囲の他者にしか気を配らなくてすむという事態そのものが、さまざまな社会制度によって維持されているのではないか。もっといえば、母を中心として、母に多くを負担させ、他の領域からは隔離するような制度設計が、ケア関係を強く限定しているのではないか、と問い返せるはずなのだ。

(岡野 p. 102)

 

……わたしたちは、問い続けなければならないだろう。「なぜわたしたちの社会では、ケアすることという、人間にとって不可欠な活動が、これほどまでに受け止められず、理論家もされず、支援も受けられず、そして敬意を払われてこなかったのだろうか」と[ibid.『道徳の諸境界』トロント 1993年;19]わたしたちの生活、社会、そしてわたし自身の存在をも支えてくれている/きたはずの、さまざまな活動や尽力がなぜ、そして誰の手によって、ここまで不可視化されてきたのだろうか。

(岡野 p. 106)

 

……この(道徳理論における公私の)境界線は、女性をはじめとした一部の者たちに、公的領域では価値がないとされる活動を押しつけつつ、そうした活動を通じいやおうなく影響を受ける/身につけていく、彼女たちの人格や道徳性を、公的領域に相応しくないとさらに貶める。他方でそれは、公的領域の中心にすでにいる者たちの権力を維持し、その道徳性や判断力を高く評価し、かれらの特権を守る役割を果たしてきた。ケアという概念が、政治理論としての批判力を発揮するのは、まさにこの地点である。

(岡野 p. 108)

 

……この問題的は、再度繰り返すが、〈自律か、依存か〉といった二元論的な考え方に囚われた政治理論を、人間の本性を相互依存性にみる政治理論への転換し、……

(p. 109)

 

 このように考えてみると、公私二元論は「ケア」と認識される活動を中心に、実際にケアを行なう者と受け手と(とに傍点)、そうした実践に直接かかわることはない――かかわらなくてもよい――が、ケア活動の価値づけや社会におけるケアの位置を決定できる立場にあるものとを分け、固定化する境界設定の役割を果たしていることに気づかされる。わたしたちの内部にまで浸透するこうした公私二元論の役割とはしたがって、ケアを中心に、不平等や格差が構築されていることを見えなくしてしまうことである。そして、ここにおいて、既存の政治、既存の社会の中心が、特権的に(特権的にに傍点)、ケア活動に関心がなく、担わなくてもよく、〈自分が知ったことではないWho Cares?〉と誰かにケアを押しつけておくことのできる者たちの無責任さ(無責任さに傍点)に覆われていることに、否応なくわたしたちは気づくことになる。

(岡野 p. 111)

 

ナニー問題

……社会の富裕層が、自分の子どものケアに対するニーズを満たすために、家事労働者を雇うことは、その雇用関係にある者だけでなく、社会全体にとって不正を働く結果になるとして、彼女はそれを「ナニー問題」と名づける。

(岡野 p. 113)

 

……かつてないほどに、経済的自立、自身の市場価値を高める自己責任が、市民としての責任であるかのように喧伝されるなかで、ではいったい〈ケアするのは誰か? Who Cares?〉と問われなければならない。そして、そもそも市民であることから排除されている者たちに、誰がケアを押しつけているのかと問うことは、地球代の喫緊の課題である。……

(岡野 p. 114)

 

……古代ギリシャでは奴隷が、二○世紀前半までは、二級市民である女性たちが、そして今や、市民から排除された外国人が担わされ始めたケア活動を、民主的な実践へと変革しなければならない。

(岡野 p. 116)

 

 ケアする民主主義の出発点は、これまでの民主主義が前提としてきた人間観を変革し、つねにすでに依存関係に巻き込まれ、他者に依存するが故に傷つきやすく、誰もがケアの受け手となり、誰かがケアを提供しなければならない、わたしたちの現実である。

(p. 116)

 

メモ:「大文字の政治」政治、外交、官僚の世界の政治

   「小文字の政治」私たちの日常生活を規定する権力関係