吉本隆明『今に生きる親鸞』

https://www.amazon.co.jp/%E4%BB%8A%E3%81%AB%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E8%A6%AA%E9%B8%9E-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%EF%BC%8B%CE%B1%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%90%89%E6%9C%AC%E9%9A%86%E6%98%8E-ebook/dp/B00EHCTV0M/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E4%BB%8A%E3%81%AB%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E8%A6%AA%E9%B8%9E&qid=1612436192&sr=8-1

 

 親鸞真宗の始祖ですが、信仰によって僧侶であったのではなく、理念と思想がたまたま宗教の形をとらざるを得ない時代だったから僧侶であったにすぎません。また、僧侶だったから浄土門の経典を註釈したのではなく、思想がたまたま仏教の形をとらざるをえない時代だったから、仏教的であったにすぎません。

(p. 13)

 

 親鸞は弘長二年(1262)に89歳で京都で亡くなったとされます。その後、娘の覚信尼や弟子たちが京都東山大谷に親鸞の墓を建て、廟堂を建てました。やがて覚信尼の孫の覚如が、この廟堂の名前を本願寺とします。親鸞は、寺をつくれとか、仏像を拝めとは一切言っていないし、そんなものは要らないんだと言っていたのですが、子孫がつくってしまったわけです。

(p. 43)

 

 法然は、例をあげて、称名念仏がいかに優れているかを説いています。

 例えば、富んでいる人は仏像を作って寄進したり、塔を立てて供養したりすることができます。しかし、貧しい人はそんなことはできません。もし仏像を作ったり、塔を立てたりすることのほうが浄土へ往きやすいというのなら、貧しい人は浄土には往きにくいことになってしまいます。しかし、称名念仏は貧富に関わりなく、誰でもがまったく平等に称えることができます。

 また、もし知恵がすぐれている人や、見聞のある人、あるいは、様々な判断をよくできる人のほうが浄土へ往きやすいのなら、知恵や知識がなく、見聞が狭く、世間のことどもに判断がよくできないような人は、浄土へ往けないことになります。しかし、そういった人たちでも、名号を称えることはできます。

(p. 51)

 

……つまり、仏教についても何も考えず、学問や知識もなく、子供を生み、老いて死んでいくごく普通の人たちが考えていることを、自分も考えたか、考えないか。それを自分の仏教の教え、思想の中に繰り入れることができたか、できなかったかという点が、法然、あるいは親鸞と、当時の優れた坊さんとの決定的な差異なのです。

……これは単に資質の違いではなく、器量の違いです。

(p.55-6)

 

一念義

 阿弥陀の第十八願は、心の底から阿弥陀如来を信じて、名号を生涯のうちに十回でも称えれば浄土へ往けるということです。親鸞は、法然の教えを受け、第十八願を眼目とするようになりますが、さらに、一生のうち真心を込めて一度だけでも念仏を称えればいいんだというところまでいき着きます。

……

「生死は不定である」のだから、誠心誠意、一回称名して終わるかもしれないという想いをこめるべきだ。親鸞のこの考えは「一念義」のなかに加えていいものです。

(p.71-4)

 

 親鸞は、

「どんな自力の計らいもすてよ」

と、繰り返し説きました。自分ではどんな計らいももたない。浄土に近づくためには、絶対の他力を媒介として、信ずるよりほかにどんな手段も持っていない。この「本願他力」こそ、究極の境涯である、としました。

(p. 79)

 

 その時々に出会った困っている人とか、苦しんでいる人とかを助けるということは、本当を言うとどっちでもいいんだ。助けようと思えば助ければいいし、助けようと思わないで通り過ぎたって、そんなことはどうでもいいということなのです。救済というのは、そういうものではないということです。

(p.140)

 

 また、親鸞は、阿弥陀如来とは何かについて、それは知恵の「光」なんだという言い方もしています。人間の煩悩とか、そういうものによって不透明にならない、あるいは、そういうものがあっても、それを透過してしまうような知恵の光である。

(p.143)

 

 無為、無想にして、ただ何も思わずにひたすら念仏を称えると、向こうのほう、つまり阿弥陀仏のほうでひとりでに往生させてくれるものだ。向こうにまかせろということなのです。これを親鸞は「自然法爾」(じねんほうじ)と言っています。

(p. 146)

 

 

 阿弥陀如来は全然、人間の形なんかしていない。それは「無」だ。色も形もないものだ。そして人間を「おのずから」という状態に持っていける手段、あるいは姿勢、素材、媒介物が阿弥陀如来であるーー親鸞は、こうはっきり言っています。

(p.144)

 

 目の前の人を助けるかどうかというのは、相対的な善悪に過ぎない。徹底している善悪とは、ひとたび浄土へ往って(この浄土は本質的な浄土ですから、死んでしまったあの世ということではありません)生をも見通せる、死も見通せる場所から還ってくるということです。……

……「還ってくる」ということ自体が、一種の形而上学的なことなのだから、そういう思想がなければたくさんの人を助けることなどできないのだ、というふうにとっても、もちろんいいでしょう。

(p. 165-69

 

「たとひ一代の法ヲ能々学ストモ、一文不知ノ愚とんの身ニナシテ」

……

 これを通俗的に解釈すると、知識というものは殺すものなのだ、と親鸞は言っているのだと思います。知識など自慢するやつは一番バカなんだ。知識を極めるのはいいことだが、極めたら、あとはそれを殺すという道を通らない限り、こんなものを自慢しているやつはダメなんだ。知識を殺せなければ嘘なのだということです。

(p. 187)