斎藤幸平『人新世の「資本論」』

 ……政府や企業がSDGsの行動指針をいくつかなぞったところで、気候変動は止められないのだ。SDGsはアリバイ作りのようなものであり、目下の危機から目を背けされる効果しかない。

 かつて、マルクスは、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判した。SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。

(p.4)

 

 急増するパーム油の生産の影響は、熱帯雨林の生態系の破壊だけではない。大規模な開発は、熱帯雨林の自然に依存してきた人々の暮らしにも破壊的な影響を与えている。例えば、熱帯雨林を農園として切り拓いた結果、土壌浸食が起き、肥料、農薬が架線に流出して、川魚が減少しているのだ。この地域の人々は、川魚からたんぱく質を摂っていたが、それができなくなり、お金が以前より必要となった。その結果、金銭を目当てに野生動物、とりわけオランウータンやトラなど絶滅危惧種の違法取引に手を染めるようになったのだ。

 このように、中核部での廉価で、便利は生活の背後には、周辺部からの労働力の搾取だけでなく、資源の収奪とそれに伴う環境負荷の押し付けが欠かせないのである。

(p. 33)

 

 環境危機という言葉を知って、私たちが免罪符的に行うことは、エコバッグを「買う」ことだろう。だが、そのエコバッグすらも、新しいデザインのものが次々と発売される。宣伝に刺激され、また次のものを買ってしまう。そして、免罪符がもたらす満足感のせいで、そのエコバッグが作られる際の遠くの地での人間や自然への暴力には、ますます無関心になる。資源が謀る(たばかる)グリーン・ウォッシュに取り込まれるとはそういうことだ。

(p. 34)

 

●デカップリング

 「経済成長」と「環境負荷」など、今まで連動して増大してきたものを、新しい技術によって切り離そうとすること。経済が成長しても環境負荷が大きくならない方法を探ること。

 

 資本主義は、コストカットのために、労働生産性を上げようとする。労働生産性が上がれば、より少ない人数で今までと同じ量の生産物を作ることができる。その場合、経済規模が同じままなら、失業者が生まれてしまう。だが、資本主義のもとでは、失業者達は生活していくことができないし、失業率が高いことを、政治家たちは嫌う。そのため、雇用を守るために、絶えず、経済規模を拡大していくよう強い圧力がかかる。こうして、生産性を上げると、経済規模を拡大せざるを得なくなる。これが「生産性の罠」である。

(p. 70)

 

 グローバル・サプライチェーンの反対側にいるのが、テスラはもちろん、マイクロソフトやアップルである。リチウムやコバルトがどのように生産されているかをそうした大企業のトップたちが知らないわけがない。実際、アメリカで人権団体による裁判も起されているのだから。にもかかわらず、涼しい顔をして、SDGsを技術革新で推進すると吹聴しているのである。

(p. 85)

 

四つの未来の選択肢

①気候ファシズム(惨事型便乗型資本主義・国家は超富裕層の利益を守り、環境弱者等を圧迫する)

②野蛮状態 無秩序な無政府状態

③気候毛沢東主義 (②を避けるために中央集権的独裁国家による気候変動への対応)

④X (脱成長型のコミュニズム(p. 2006)

 

 資本主義とは、価値増殖と資本蓄積のために、さらなる市場を絶えず開拓していくシステムである。そして、その過程では、環境への負荷を外部へと転化しながら、自然と人間からの収奪を行ってきた。この過程は、マルクスが言うように、「際限のない」運動である。利潤を増やすための経済成長をけっして止めることがないのが、資本主義の本質なのだ。

(p. 116)

 

 ……資本主義はまさに70年代、深刻なシステム危機に陥っていた。この危機を乗り越えるために、新自由主義という政策パッケージが世界的に導入されたのである。そして、新自由主義は、民営化、規制緩和、緊縮政策を推し進め、金融市場や自由貿易を拡大し、グローバル化の端緒を切り拓いた。それが、資本主義延命の唯一の方法だったのだ。

 それゆえ、「70年代の資本主義」に戻れるはずもなく、戻ったとしても、資本の自己増殖を目指す資本主義はそこに留まることができない。

(p。118)

 

 〈コモン〉は、アメリカ型新自由主義ソ連型国有化の両方に対峙する「第三の道」を切り拓く鍵だといっていい。つまり、市場原理主義のように、あらゆるものを商品化するのでもなく、かといって、ソ連社会主義のように、あらゆるものの国有化を目指すのでもない。第三の道としての〈コモン〉は、水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理することを目指す。

(p. 141)

 

……新自由主義に抗して、福祉国家に逆戻りしようとするだけでは不十分な対抗策にしかならない。高度経済成長や南北格差を前提とした福祉国家路線は、気候変動の時代にはもはや有効ではなく、自国中心主義的な気候ケインズ主義に陥るのが関の山だ。それは気候ファシズムになだれ込んでいく危険性と隣り合わせである。

 ……

 つまり、単に人々の生活をより豊かにするだけでなく、地球を持続可能な〈コモン〉として、資本の商品化から取り戻そうとする、新しい道を模索せねばならない。

(p. 146-7)

 

 人類はかつてないほどの自然支配のための技術を獲得し、惑星全体に大きな影響を及ぼしている。だが、同時に私たちはかつてないほどに、自然の力を前にして無力になっているのだ。

 このことは、環境意識の高い人であっても、同じである。自然や健康を大事に強いようとオーガニックなものを選択していても、おそらく多くの人は鮭も鶏肉も、食品売り場に並ぶ、綺麗に梱包された「商品」しか食べられないのではないか。

(p. 220)

 

●ジオエンジニアリング

地球システムそのものに介入することで、気候を操作しようとする。成層圏に硫酸エアロゾルを撒いて太陽光を遮断する、太陽光を反射する鏡を宇宙に設置するなど。

 

……経済成長と潤沢さを結びつけるのをやめ、脱成長と潤沢さのペアを真剣に考える必要がある。

…… 世の中は、経済成長のための「構造改革」が繰り返されることによって、むしろ、ますます経済格差、貧困や緊縮が溢れるようになっている、と。

……私たちは、普通、資本主義が豊かさや潤沢さをもたらしてくれると考えているが、本当は、逆なのではないか。

(P.?)

 

 〈コモン〉は、電力や水だけではない。生産手段そのものも、〈コモン〉にしていく必要がある。資本家や株主なしに、労働者たちが共同出資して、生産手段を共同所有し、共同管理する組織が「ワーカーズ・コープ(労働者協同組合)」である。

(p.261)

 

 私たちは経済成長からの恩恵を求めて、一生懸命に働きすぎた。一生懸命働くのは、資本にとって非常に都合がいい。だが、希少性を本質にする資本主義の枠内で、豊かになることを目指しても、全員が豊かになることは不可能である。

 だから、そんなシステムはやめてしまおう。そして脱成長で置き換えよう。その方法が「ラディカルな潤沢さ」を実現する脱成長コミュニズムである。そうすれば、人々の生活は経済成長に依存しなくても、より安定して豊かになる。

(p. 268)

 

  資本主義が気候変動を引き起こしているのは、これまで見てきたとおりだ。経済成長を優先した地球規模での開発と破壊が、その原因なのである。

 感染症パンデミックも構図は似ている。先進国において増え続ける需要にこたえるために、資本は自然の深くまで入り込み、森林を破壊し、大規模農場経営を行う。自然の奥深くにまで入っていけば、未知のウイルスとの接触機会が増えるだけではない。自然の複雑な生態系と異なり、人の手で切り拓かれた空間、とりわけ現代のモノカルチャーが占める空間は、ウイルスを抑え込むことができない。そして、ウイルスは変異していき、グローバル化した人と物の流れに乗って、瞬間的に世界中に広がっていく。

……

 対策についても、気候危機とコロナ禍は似たようなものになるだろう。「人命か、経済か」というジレンマに直面すると、行きすぎた対策は景気を悪くするという理由で、根本問題への取り組みは先延ばしにされる。だが、対策を遅らせるほど、より大きな経済損失を生んでしまう。もちろん人命も失われる。

(p. 278-9)

 

●「南ア食料主権運動」

バルセロナの気候非常事態宣言

 

 本書では、〈コモン〉、つまり、私的所有や国有とは異なる生産手段の水平的な共同管理こそが、コミュニズムの基礎になると唱えてきた。だが、それは、国家の力を拒絶することを意味しない。むしろ、インフラ整備や産業転換の必要性を考えれば、国家という解決手段を拒否することは愚かですらある。国家を拒否するアナーキズムは、気候危機に対処できない。だが、国家に頼りすぎることは、気候毛沢東主義に陥る危険性を孕んでいる。だからこそ、コミュニズムが唯一の選択肢なのである。

 その際、専門家や政治家たちのトップダウン型の統治形態に陥らないようにするためには、市民参画の主体性を育み、市民の意見が国家に反映されるプロセスを制度化していくことが欠かせない。

 そのためには、国家の力を前提としながらも、〈コモン〉の領域を広げていくことによって、民主主義を議会の外へ広げ、生産の次元へと拡大していく必要がある。協同組合、社会的所有や「〈市民〉営化」がその一例だ。

 同時に、議会民主主義そのものも大きく変容しなくてはならない。すでに見たように、地方自治体のレベルでは、ミュニシパリズムこそがそのような試みである。そして、国家のレベルでは、「市民議会」がもう一つのモデルとなる。

……

 意味を根本から問い直し、今、「常識」と見なされているものを転覆していく。この瞬間にこそ、既存の枠組みを超えていくような、真に「政治的なもの」が顕在化する。それこそが、「資本主義の超克」、「民主主義の刷新」、「社会の脱炭素化」という、三位一体のプロジェクトだ。経済、政治、環境のシナジー効果が増幅していくことで、社会システムの大転換を迫るのである。(p。355ー7)

 

 ワーカーズ・コープでもいい、学校ストライキでもいい、有機農業でもいい。地方自治体の議員を目指すのだっていい。環境NGOで活動するのも大切だ。仲間と市民電力を初めてもいい。もちろん今所属している企業に厳しい環境対策を求めるのも、大きな一歩となる。労働時間の短縮や生産の民主化を実現するなら、労働組合しかない。

 そのうえで、気候非常事態宣言に向けて署名活動もすべきだし、ユフウ層への負担を求める運動を展開していく必要もある。そうやって、相互扶助のネット枠を発展させ、強靭なものに鍛え上げていこう。

……冷笑主義を捨て、99%の力を見せつけてやろう。そのためには、まず3.5%が、今この瞬間から動き出すのが鍵である。その動きが、大きなうねりとなれば、資本の力は制限され、民主主義は刷新され、脱炭素社会も実現されるに違いない。

(p. 363-4)