村上靖彦『ケアとは何か 看護・福祉で大切なこと』(中公新書)

……ペインスケールは「想像できる最大の痛みを100としたときに今の痛みはどのくらいですか?」と尋ねたり、患者の表情から痛みを推し量るスケールだ。しかし、患者側に立とうとする視点と外から客観的に計測しようとする視点との緊張関係は残る。がん専門看護師の春木ひかるさんへのインタビューから例を挙げよう(『現象学でよみとく専門看護師のコンピテンシー』、210頁)。

 

 春木さん とても印象的なぼうこうがんの末期の患者さんがいて、私はまだ2年目の看護師だったんですえkど、先輩の看護師さんが、「あの人、痛そうじゃないよね」という話をするんですけど、私が患者さんのベッドサイドに行くと、「痛い」って言うんですよね。……でも「あの人は痛そうじゃないから」っていう、客観的な先輩ナースの感じ方と、『でも本人が「痛い」って言ってる以上、痛いよね。なんとかしなきゃいけないんじゃないか』って思う、なんかそこの違いみたいなものがまずあって。 

 でドクターに相談しても、ひどい先生なんかだと「気のせい」みたいなことをいったりするわけですよ。「あの人、痛いって言ってるけど、そんなに痛そうじゃないよね」とか、「気のせいじゃない?」みたいなことを言うときに、『どうしてそうなっちゃうのかな』っていう感じがあって。

 

 この語りでは、医療者が患者の位置で痛みを感じとろうとしていないことが問題とされている。あたかも客観的な「痛み」なるものがあるかのように医療者がふるまい、患者が訴える「痛み」は幻覚や詐病であるかのように扱われる。前章の議論にならっていえば、「気のせい」と感じる医師は、患者との〈出会いの場〉を持っていない。客観化は必然的に身体をモノとして扱う視点であり、〈出会い〉にふさわしい思考法ではないからだ。

(p. 38-39)

 

 末期の心臓病で厳格な食事制限を強いられている最中に、プリンや寿司が食べたいという願いごとをされたとき、どうするべきか医療者なら悩むだろう。病気を悪化させるリスクだけでなく、衛生管理の問題などもあるかもしれない。つまり、この場合には食べることが医療と対立している。ケアが医療と乖離するケースだ。しかし、医師も「食べたい」という願いの重要性を経験上理解している。その願いが叶うことで、本人は「食べたいもん食べれたー、食べれるっていいなー」と大きな満足を得る。

 この「満足」というのは、〈からだ〉を再発見する出来事でもある。本人にとっても家族にとっても、人生の最後に悔いを残さないための大事な経験であろう。一見すると些細な事だけれども、こうした願いの充足は生活上の大きな意味を持つ。もしも「食事制限があるから」「安全を確保できないからだめ」と言って、ルール優先で切り捨ててしまったとしたら、本人にとって大事な願いが叶えられないままになってしまい、当事者が置き去りになったまま亡くなってしまうことになるだろう。

(p. 64)

● この後、牧野日和(ひより)『最期まで口から食べるために 2』から神経難病で慰労の小学生の裕子ちゃんが、最期にプリンを食べることができた事例を引き、「お食い締め(おくいじめ)」が解説されている。

 

●痛みにしろ、口から食べることにしろ、患者と家族の立場から同じことは多くの生活の中の言葉で語られて、医療への提言が行われてきたはずなのに、それらが大きく取り上げられることはなく、専門職が語る言葉を学者が「いかにも」な理屈で解説し、そこに「現象学」という箔が付けば、話題になるということとそのものが、患者自身の主体が奪われていることの証左のように私には感じられるけど。

 

 続けて取り上げるのは、ふたたび看護師の宇都宮さんの入院の体験である。

(spitzibara:点滴が漏れないように手を動かさずにいることでひどい肩こりになり、その辛さかがせん妄の原因となった体験を語り)……やっぱり、「この処置は痛いから仕方がない」とか、「ある程度痛いのは仕方がない」とか、「苦しいのは仕方ない」とかっていうことになるんだけども。やっぱり、傷口の痛みだけじゃなく、さまざまな苦痛を感じておられることは確かなので、……筋肉痛とか、疲労感だとか、何ともいえない倦怠感だとかっていうようなことがないかどうかっていうような。なんかそういう、アンテナはすごく敏感にしとかないと、やっぱりせん妄のなかの医原性っていわれるものは、こっち側の気づかないことの医原性もあるんじゃないかというふうにおもいましたね。

……

 宇都宮さんが語る「アンテナ」とは、患者が受けている苦痛の兆候(サイン)をキャッチする感受性のたとえである。苦痛をめぐるコミュニケーションのなかで、患者とケアラーの〈出会いの場〉が開かれる。そのとき、孤立の象徴だった痛みは、回復の兆しという別の水準に変わり、肯定的なものとなる。

 痛みに気づいてもらえないとき、患者は、単に身体的苦痛が放置されていると感じるだけでなく、無視され孤立してしまっているという心理的な苦痛を覚える。周囲に医療者やケアラーがいるにもかかわらず、患者は孤独のただなかに置かれる。このようにして、医療事態が原因となってせん妄が生じるケースもある。痛みとせん妄に閉じ込められるということは、外の世界から切り離されるということである。世界の中に「居る」という確証を失い、平時には自明だった「自分の体は自分のものだ」という実感も危うくなる。痛みを緩和し、快適さを提供するケアは、患者が自分の体を取り戻し、この共同世界のなかに住みなおすための営為となる。コンフォートケアは、単なる業務ではなく、存在の感覚を支える大事なケアなのだ。

(p. 116-7)

 

   本書の大部分では、議論をクリアにするために医療とケアを区別して議論してきた。だが、そもそもケアが成り立つためには医療が必要不可欠であるし、医療資源のひっ迫は即座にケアの切断につながる。加えてコロナ禍で私たちが学んだことは、そのようなケアの切断は、もともと困難な状況に置かれていた人たち、言い換えれば、最もケアを必要としている人たちから始まっていくということである。

(p. 198-199)

 

●区別して論じてきたとは言うが、著者の「ケアラー」という言葉で捉えられている職種の範囲は医師を含んでいるようにも感じられる箇所もあり、家族は含まれていないようでもあり、文脈によって微妙に変わっているように思えないでもない。専門職であるケアワーカーを含まない使い方が一般的だと思っていたのだけれど、領域によるのか? 一方で、専門職を意味しない「ヤングケアラー」という文言は、いきなり註釈なく使われており、ちょっと不思議。

 

●ACPのとらえ方のナイーブさ?も(p.101)、ひっかかるところ。

 

●いろんなものを集めてきて、つぎはぎしてある感あり。評判が良いというので読んではみたけど、案外に浅いのではないか。現象学という手法がよくわかっていないこともあるけど。