菅野久美子『家族遺棄社会 孤立、無縁、放置の果てに。』

 我々の社会は、目の見えないところで未曽有の『家族遺棄社会』をすでに迎えている。

 そして、社会そのものが、「お荷物」になった家族が次々と捨てられる巨大な墓場になりつつある。

 核家族化、離婚の増大、毒親や虐待、非正規雇用就職氷河期、中高年のひきこもりとその親を取り巻く8050問題、孤独死、そして、行き場のない遺骨――。

(p.4)

 

 ある女性は母親と同居していたが、長年憎しみを抱いていた。そのため母親は、骨折をして入院した後、娘が選んだ最も安い最低ランクの介護施設に入所させられた。介護施設を仲介するコンサルタントから紹介を受け、それ以降は遠藤(英樹。一般社団法人LMN代表。一種の「家族代行業」を担う民間の終活団体)が母親のサポートを引き受けることになった。

「私時たま介護施設を訪れて母親の様子を見に行ったんですが、娘さんは一度も来ませんでしたね。お母さんは終末期なのに日中がらんどうの倉庫のような場所に置きっぱなしでした。移動式のパイプベッドの上でまさしく、放置されていたんです。職員が見下いるわけでもなく、ただ、置きっぱなし。あんなにひどい環境の介護施設は初めて見ましたね」

(p.38)

 

……遠藤のサービスを利用すれば極端な話、依頼者は介護施設への入所から本人の骨さえ見ずに、親や親族とサヨナラできる。そして良し悪しにかかわらず、そんな社会が我々の水面下でひたひたと押し寄せつつある。

(p. 41)

 

 しかし今の社会にとって、遠藤らの存在が必要とされているというのは確かだ。社会が押し付ける通念や正しい家族像に苦しんだ人々の中には、遠藤に救われた人が数多く存在するというのもゆるぎない事実なのである。また、そこには縁と縁とが切れ切れとなった私たちの社会が抱える家族たちの実像が見え隠れする。家族代行ビジネスとは、つまり家族遺棄ビジネスである。

(p.42)

 

……2019年、江東区で、高齢の兄弟が食べ物もなくなり、困窮ししたとNHKが報じた。行政は、その存在さえも把握していなかった。この兄弟のような人たちは日本中に無数にいて、今この瞬間も、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされている。

(p.86)

 

……ニッセイ基礎研究所の調査では、わが国では、年間3万人が孤立死孤独死)し、同研究所の調査を基にした私の試算では1000万人が、孤立状態にある。

(p.96)

 

 政府は、最新となる令和元年板の『高齢者白書』を6がt18日に閣議決定した。

 この中にわずかだが、孤独死についてのデータがある。

 東京23区内における一人暮らしで65歳以上の人の自宅での死亡者数は、平成29(2017)年に3333人。この数が、前年の3179人を上回り、過去最高を記録したのだ。……

 また、同白書では、孤立死(誰にも看取られることなく亡くなった後に発見される死)を身近な問題だと感じる人が一人暮らし世帯では50.8%と5割を超えている。

 もはや、孤独死は誰にとっても他人ごとではない。長年現場を取材している立場からすると、高齢者の孤独死は発見が早いという特徴がある。それに比べて、明らかに現役世代は長期間発見されず、悲惨な状態で見つかるケースが多いのだ。

(p. 103)

 

 内閣府は2019年4月に初めて、自宅に半年以上閉じこもっている「広義のひきこもり」の40~64歳が、全国で推計61万3000人いるとの調査結果を出した。

 今後政府が抜本的な対策を打たない限り、8050問題に代表されるように、長期化する中高年のひきこもりが親亡き後に、孤独死や餓死といった最期を迎えるケースも、増えるだろう。

(p. 131)

 

「家族遺棄社会は、家族が同じ家族を”見棄てる”というだけでなく、そもそも社会の側もコミュニティの最小単位である家族をある意味で放棄している面があるんですよ。つまり、社会という集合体から家族そのものが切り離され、どこにもつながりがないという、いわば家族孤立社会でもあるのです。こういった社会になったのは、日本の歴史的な必然なのですよ」

 と真鍋(厚。評論家。『不寛容という不安』著者)は、ゆっくりと答えた。

……

 真鍋はその大きな日本の変化として、二つの事象を挙げた。それは、職場や家族、地域社会といった社会関係資本ソーシャルキャピタル)が近年急速に崩壊していったということ、そして、世界的な潮流として個人の生活スタイルや価値観を尊重するという個人主義が急速に進んだことだ。

(p. 160-1)

 

……真鍋は、日本は高度経済成長期あたりから高福祉国家モデルではなく、右肩上がりの所得や企業年金で全てを賄う、自助努力国家モデルとなっているという。だから企業に利益が回らなくなると、とたんに家族の生活もソーシャルキャピタルも成り立たなくなる。要は、儲かった企業が個人の面倒を見るという仕組みになっており、国が零れ落ちた人の面倒を見ることを重視していなかったからだ。

(p. 162)

 

 かつて、つながっていた会社や家族という人間関係が、病気や失業などふとしたきっかけで失われる。それによって、放り出されたあまりにか弱い個が、無防備なままむき出しになる。そして、自らをサンドバッグのように痛めつけ、それは命さえも奪っていく。

 また、働き方が流動的になると、家族全員が非正規雇用という家庭もあるし、自営業でも地域の人々に密着したものばかりではなく、いつ切られるかわからない大企業の孫請けなどで収入も人間関係も不安定となる。地域からも、会社からも見放された人々は、ただ孤立するしかない。それは、家族でも個人でも同じことだ。

(p. 166)