有薗真代『ハンセン病療養所を生きる 隔離壁を砦に』(世界思想社 2017)

 ハンセン病療法所に隔離された人々は、みずからに強いられたきわめて厳しい生存条件のなかから、いかにして多種多様な集団的実践を編みだし、肯定的で開放的な諸条件をつくりあげていったのか。本書では、かれらがみずからの置かれた歴史的、社会的条件とわたりあいながら、自己と他者の生を豊饒化していくプロセスを跡づけてみたい。

(p. 9)

 

 このように、脱出と解放を等価のものとみなす論理にとらわれている限り、療養所から出ることのできない人やそこに留まることを選択した人は、療養所という文脈に「埋め込まれた(embedded in)」即自的な存在として、あるいは、無力で依存的な存在として、ラベリングされたままの状態となってしまう。さらにいうと、ひとつの場所から動けない(動かない)人、ローカルな地点に足場を定めて暮らす人、こうした人々の行為の意味もまた、「不―自由」「(抵抗)不-可能」の位相に閉ざされたままとなる。つまり、既存の自由と抵抗の論理では、一つのところに留まる人々の行為にポジティヴな意味を見出すことは困難なのだ。

 もうひとつ、付け加えておくべきことがある。それは、現代社会においては、脱出や可動性を原理とする解放戦略はすでに、支配システムの側の権力装置の中に巧妙に組み込まれつつあるという点である。……(p.38-9)

 

 そして、このような権力装置は、日本の障害者政策にさえ影響を及ぼしてきた。2002年12月に内閣府が定めた「障害者基本計画」(第2次:2003ー2012年)を例に挙げて、この点について確認しておきたい。この計画では、知的障害者入所施設整備を「必要なものに限定する」とし、「施設から地域生活への移行の推進」を図ることが明記されている。この基本計画は、障害者政策の基本的な転換を促すものであり、脱施設化への前進を示すものとして各メディアで紹介された。

 たしかに、一見すると「障害者基本計画」は、知的障害者を隔離収容施設から地域へと解放し、それによってかれらの「自由」を保障するものでであるかのようにみえる。しかし、この基本計画の内実は、手放しで喜ぶべきものではなかった。同計画の中には在宅サービスや通所施設などについての言及は一切なく、障害者の地域生活移行も検討課題として挙げられているのみで、財政的な裏付けをもった具体策はまったく提示されていない。ここで断言されていることは、五年間は施設を整備しないという数値目標と、入所施設の縮小・解体に向けた方針のみである。

 脱施設化の本来の目的は、障害者の暮らしを地域で保障することであり、施設解体はそのための手段の一つに過ぎないものだった。しかし、二一世紀に入って日本政府が主導した「脱施設化」においては、施設解体という手段が目的へと転化され、地域で障害者の暮らしを支えるための社会的資源が整備されないまま、施設解体の身が容認される状況がつくりだされてしまった。

……

 新自由主義政策下においては、社会福祉は自由な経済活動を阻害するものとして抑制の対象となる。……ここでは障害者さえも、市場の中で消費者としての位置を占めることが暗黙のうちに期待されてしまう。このとき「脱施設化」は、当事者とその家族が望んでいたかたちではなく、公費(施設運営費や社会保障費)を削減し、あわせて障害者を福祉商品の新たな消費者として迎えるという論理のもとに推進されることになる。

 このような情勢のもとでは、障害者は、政府や自治体の財政状況に応じて、家族や地域社会から十分な支援を受けられる見込みがない状態で施設から追い出されたり、ある施設から別の施設へとたらい回しにされるなど、居住地を「臨機応変に」移転させられる危険性さえ生じてくる。

……もともとは当事者側の切実な要求をもとに構成された脱施設化の理念もまた、このようなかたちで統治技術に横領され、新たな生の統治の中に組み込まれつつある。

 もはや私たちは、「脱出(エクソダス)」を原理とする自由と抵抗の論理から、いったん「脱出」すべき時に来ているといえる。脱出と可動性が解放のカギとなるというインプリケーションを念頭に置きつつも、その論理だけにとらわれるのではなく、別の自由の回路を拓くことが、いま必要とされているのだ。

(p. 41-3)

 

  光田健輔は、絶対隔離を強固に推進した代表人物として知られている。……

 しかし、ハンセン病療養所で聞き取り調査をすすめていると、いまなお光田を尊敬し、彼に恩義を感じている入所者にたびたび出会う。彼らは、隔離政策の不当性が明らかになった現在もなお、光田を信じ続けている。こうした人々の感情を、「騙されている」ものとして一面的に解釈することはできない。かれらは、簡単に人に騙されてしまうほど鈍感でも無知でもない。むしろ、光田の言動のなかに両義性がはらまれていたと考える方が自然であろう。

(p. 70-1)

 

「らい予防法闘争」1953年

 引き金は、1951年光田ら3人の園長による参議院厚生委員会での証言。「患者の意志に反しても療養所に収容できる法律と強権が必要である」