安藤量子『海を撃つ 福島・広島・ベラルーシから』(みすず書房 2019)

1976年広島生まれ。結婚後、植木屋を営む夫と移り住んだ福島県いわき市で震災と原発事故を体験。放射線の勉強会や照射線量の測定を続けるうち、国際放射線防護委員会(ICRP)の声明と出会い、地元有志と活動を始め、チェルノブイリ原発事故を経験したベラルーシへの視察の旅にも参加。国内外で発言しながら、対話集会の運営に参画。

 

●背表紙にある一節

地震津波、それに続いた原発事故は巨大であり、全体を語りうる人はどこにもいない。代弁もできない。ここにあるのは、いわき市の山間に暮らすひとりの女性の幻視的なまなざしがとらえた、事故後7年半の福島に走る亀裂と断層の記録である」

 

全体を語りうる人はどこにもいないし、代弁もできない、語れるのはひとりひとりの体験だけだというのが、現在進行形のコロナ禍に通じているような気がし、読もうと強く思った。

 

●2000年頃からヨーロッパで、ベラルーシで行われたETHOSプロジェクトに対して、放射能汚染地域に住民を騙して住まわせ、子どもたちに被爆を強いている、という批判が巻き起こる。

 著者はその批判は的外れで、「そこに暮らしたいと願う人たちに対して放射線のリスクが提言するように助言し、ともに活動しただけ」だというが、著者自身も自らが始めた「福島のエートス」をめぐり、同様の非難を浴びる。

 

いわき市の最北端、末続を含む久之浜町全域に対して、2021年3月12日にいわき市自主避難を要請。3月15日には政府による屋内退避区域指定がされ、ほぼすべての住民が避難し、ほとんど無人となった。1月後の4月21日に政府は指定を解除し、通常通りの暮らしを送ってもよいこととなったが、本当に戻って良いのか。戸惑う住人の声を聞き、著者は末続(すえつぎ)地区に通い、放射線量を測ってグラフにする。

 

 測定し、測定結果をグラフにすることで、私が伝えたかったことはなんだったのだろう。末続が高くて危険だ、ということではない。けれど末続は低いから安心だ、というのとも違う。高くはない、けれど事故前に比べれば低いとは言えない現在の状況を、そのまま伝えたかった。自分の暮らしに何が必要なのか、あるいは必要ないのかを、そこに暮らす人たちが考える材料とするために。

 説明会が終わった後、しばらくグラフを見て考えた。どうすれば、高くもない低くもない現状を適切にグラフで表せるのだろうか……(p. 218

 

  著者らは、測定に参加した15人の結果のグラフに、原発事故などが起きていない平常時に一年間に許容される放射線量(追加被爆)の基準1ミリシーベルトを赤で、事故が起きる前の自然放射線量の目安を緑で、グラフに入れてみる。

 

 一五本の折れ線は、ほとんどすべてが、赤と緑の日本の水平線の中にきれいに収まった。宮崎さんから送られてきたこのグラフを見たときに、私はこんなに美しいグラフをこれまで見たことがない、と思った。そこには過不足なくすべてが表されていた。一本一本の折れ線グラフは、それぞれ一人一人の暮らしだ。ただの放射線量ではない。この高くなったところ、低くなったところ、すべてに個人線量計を持ち運んだ人の暮らしがある。その暮らしは事故前の自然放射線量よりは高い、けれど年間1ミリシーベルトという目安から見ると決して高いとは言えない線量の幅の中にあるということが、一目で明確に伝わる。(p. 219)

 

 ……高くもない、低くもない宙ぶらりんの放射線量を見て、高いのか、低いのか、と尋ねる人はほとんどいなくなった。ああ、この程度ね。これくらいね。こんなものか。そして山が目立つ時は、原因を考えることもあるし、気にしないときもある。この程度ね、という評価は、現状にかならずしも満足しているわけではないし、納得しているわけでもない。ただ現状をフェアな形で把握できたことに対する反応であり評価だ。このグラフは生活を価値づけない。ありのままに状況を表している。宙ぶらりんの私たちの現状を、これ以上適切に伝えるグラフは他にないと思っている。(p. 219-220)

 

 どれだけ測定値を示しても、きっとその人たち(spitzibara:末続を危険なところだという東京の親せきなど)は耳を貸さないだろう。たかくもない、低くもない、それでも、そこに暮らす価値があるかどうか判断できるのは、その場所に暮らす人だけだ。遠くにいる人たちには、その価値はわからない。しばしば、わかろうともしない。なぜなら、そうする必要がないからだ。

 そこに暮らす人たちは、それでも、それでも、と何度も反転する問いの中を行き来し、逡巡し、なんらかの判断をする。それは必ずしも積極的なものばかりではない。限られた選択肢と条件の中から決めざるを得ないことも多い。私たちは、あのグラフを用意しただけだ。生活をしていく上での条件の一つに過ぎない放射線量を示す手伝いをすることしかできないし、できなかった。

 放射線の問題が暮らしの中でどれだけの比重を占めるのかは人によって違うし、何を大切にしながら暮らしていくのかも人によって違う。自分の暮らしにとって大切なものはなんなのか、そう自分に問いかけた時に、放射線の存在が大切なものを見失わせないように、グラフが大切なものをまもるささやかな助けになるように。私たちのしてきたことは、ただそれだけだった。(p. 223)

 

●2015年9月、いったん締めくくりを迎えた12回目のダイアログセミナー当日。海外からも華やかな登壇者を迎え、参加者は達成感に満ちていた。そこへ、会場入り口付近に、浪江町の住民を名のる、首から家族の写真を下げた男性が現れる。独り言を言い、登壇者に向けて写真を掲げて振る。多くの人は気づいていない。

 

 私は、彼の姿を見ながら動揺していた。私は本当は、こうなることをずっと前から知っていたのではないか。ダイアログセミナーに招かれなかった避難地域の人たちが、陰の方に追いやられていることに気づいていたのではないか。世の中は、「復興」に向かってひた走っているように見えた。次々と復興の成功者があらわれ、メディアを賑わし、人々は称賛を浴びせた。紛れもなく、私もその中にいた。その中心であったと言っていい。

 しかし、私たちは全員知っていたではないか。避難指示が解除される見込みさえなく、放置されている人びとがいることを。成功者が称賛を浴びれば浴びるほど、彼らはの注目は薄れ、万事怠りなく進んでいるとの空気は強まった。脚光を集めたものに当たる光はますます強く、一方で、陰に落ちた人々はより暗がりに沈み、その姿は見えなくなった。(p. 260-261)

 

●2017年3月11日 著者らは双葉町に現地視察に向かう。帰還困難区域に指定され、いまだ批判指示解除のめどが立っていない。

 

帰路のバスで、14時46分に黙とう。6周年の追悼記念集会がテレビに流れる。復興ぶりだけを語る総理大臣式辞。

……続いて秋篠宮殿下のお言葉読み上げ。総理大臣挨拶の酷薄さを取り繕うように、配慮に溢れた言葉で、原発事故の被害に触れ、いまだ帰還のかなわない人に見舞いを述べた。

 バスは楢葉町に入った。黙ってテレビのスイッチを切った。そう、復興は進んだ。進んでいる。進んだことになっている。そして、復興の波に乗れない地域や人々のことは、いないことに、忘れることにしようとしているのだ。復興は進んだ、それ以外の事実は、やがてなかったことにされるのかもしれない。それならば、私は忘れまい。今日見た景色を、聞いた話を、忘却の向こうへ押しやられようとしていることたちを、あなたが忘れるのなら、消し去ってしまおうとするなら、私は、記憶に、記録にとどめよう。(p. 267)