坂上香『プリズン・サークル』(岩波書店 2022)

 コミュニティの力を使って問題からの回復を促し、人間的な成長を実現しようとするこうしたアプローチは「回復共同体(Therapeutic Community: TC)と呼ばれ、欧米を中心として世界のあちこちで実践されている。ただし、運営組織や制度によって理念、対象者、目的、規模、活動内容や携帯はそれぞれ異なるため、TCを名乗っていても、まったく様相が違ったりする。

(p. 12)

 

 哲学者のミシェル・フーコーは、「従順」で「有用」な個人を作るための「規律権力」が学校、警察、工場、企業、公共機関を覆い、社会が刑務所化してきたことを指摘した。……しかも、新型コロナウイルスの感染拡大を理由にすべてが「黙働化」してしまい、ルールを守らない人々に対する罰則を求める声も強い。この社会のありようはさらに刑務所化を推し進めていっているように映る。

(p. 40)

 

 元精神科分析医のアリス・ミラーは言う。子ども時代の真実--想像を絶する、腹立たしく、痛ましい体験--は、多くの人にとり強いられたもので、その記憶はすさまじく抑圧されている。この問題が解消されるのは、抑圧の原因となった体験が思い出され、言葉によって表現され、許しがたいものとして裁かれた時だけだと。

(p. 84)

 

 この「耳を傾けられる」という体験が、サンクチュアリの形成には欠かせない。まずはサークルの中に身を置いて、誰かの語りに耳を澄ますところから始める。これはやがて自分の体験を受け止めることにつながる。同時に、語り手にとっては耳を傾けてくれる人の存在が欠かせない。だから何かを語らずとも、そこにいて聴く人の存在自体が「証人」としての意味を持つのだ。そして聴いた人はやがて聞いてもらう体験をする。TCでは証人と語り手、両者の体験を繰り返していく。それがサンクチュアリの維持につながる。……

(p. 88-9)

 

 真人は、人が自分の頭より上にくると反射的にのけぞってしまうことを、ジェスチャーつきで説明した。そして、それは幼少期の虐待とつながっているのかもしれないとボソッと言った。

 拓也は、真人の話を身を乗り出すようにして聴いていた。そして真人が語り終わるや否や、拓也の口から言葉があふれ出てきた。

「今の話聞いて、僕、布団たたき、ガムテープ、浴槽がダメなんですよね。絶対家に置かないんですよね。昔何をされたかってことは覚えてなくて、特に痛かったことぐらいで。普段、日常的にやられていたことに関しては、全然覚えていなくって。でも、体が覚えているので、たぶんこのアイテムが家にあったらきついっていうのは、そういうところなのかなって……」

(p. 90-91)

 

 拓也のケースでは、実は一度だけ、施設職員がいじめを疑い、声をかけてきたことがあった。しかし、加害児童も同席するばだったために、拓也は報復を恐れて言い出せなかった。個別インタビューでは彼は次のように明かした。

「何が一番つらかったって、そん時の職員に、誰にも相談できなかったんですよね。「どうせ言っても何も変わらない」「どうせ誰も味方になってくれない」みたいなふうに思っていたので。僕は人に相談するのが苦手なんですけど、誰かに言って否定されたり、どうにもならなかったっていう経験を積んできているからだと思うんですね」

 こうした無力感や不信感は拓也に限った話ではなく、施設経験者の共通体験ともいえる。また、拓也がそうであったように、施設にいる子どもたちの多くは、自分が置かれている状況に対して適切な説明を受けることも、不安を解消できるような対応をとってもらうこともないのかもしれない。集団管理が子どもの無力感を増幅し、暴力を誘発している可能性があると西澤は危惧する。

(p.171-2)

 

 修復的司法はRestorative Justiceの訳で、修復的正義や修復的対話などの訳もある。一言でいうなら、犯罪を、加害者によって被害者にもたらされた「ダメ―ジ(損害)」、あるいは関係性を壊す行為ととらえ、損害や関係性の「修復」を対話によって探る発想のことである。処罰から、加害者自身の回復へと発想を転換したのがTCであるなら、事件当時者の関係性を修復させるという発想へ転換させるのが修復的司法だ。

(p. 200-201)

 

 TCでの撮影は、たいてい黒羽刑務所での面会の翌日か数日後だった。訓練生がサークルで語り合う様子にカメラを向けながら、アクリル板越しの弟の姿が浮かび、そのあまりの差に身もだえする思いがした。

 私は取材者であると同時に、受刑者の家族でもあった。旧来の制度や処遇に効果がないことを身をもって体験してきた一人でもある。回復が単純な道のりではないことを痛感してきた当事者家族の一人でもあり、かつて傷つけられ、傷つけてきた当事者の一人でもある。暴力の悪循環をなんとかして断ち切りたいと切望する背景には、このように複雑に絡み合う私の立場性があり、それがまた映画や本書を形作ってきたのかもしれない。

(p. 265-6)