……「死ぬ前の夫が安楽死のことを言い出して(「うちにつれて帰る」の章参照:spitzibaraオレゴンに行けば自殺ほう助が受けられる、という話をした)すごくいやだった」とあたしが言ったとき、「なぜ?」と上野さんが追及した。上野さんにジッと見つめられて考えた。「自分の命は自分の命だ、おまえには関わることができないと拒否されたわけね」と上野さんが筋道をつけてくれた。その一瞬、何かがものすごくクリアになった。おそろしいくらい。これが上野さんだ。
(p.95-6)
もう一度、介護したい。
やってて、すごく幸せだったわけじゃない。やってるときは精神的にいっぱいいっぱいで、まるで若い人のぱんぱんに張りつめたお肌のように、ぱんぱんに張りつめていた。今はそうじゃない。あたしたちの世代のお肌のように、萎れてしなびてからっぽだ。
男が一人、老いて死んでいくのを看取るのは、ほんとうによかった。
母の死は、同じ女として見届けた。悲しみなんかなかった。ただ、よく生きた、よく死んだと納得した。でも男たちの死に対しては、それ以上の何かを感じている。達成感というか、終了感というか、感性感というか。
父のも夫のも、ペニスを見た。それぞれ死に近くなった頃のことだ。おしっこの手伝いをしていたから、見て、触らないわけにはいかなかった。父のも夫のも小さくて、なま温かくて、ふにゃふにゃっとしていた。あれが、真のペニスだったんだなと思う。男のああいうペニスとちゃんと関わってこそ、男と真実の関わりを持てたような気がするのだ。
(p. 100-1)
……(spitzibara:夫の死後の生活が数行で描写されて)二か月に一ぺん日本に行ってはしゃぎまわるが、あとはここで、朝から晩まで仕事をしている。いやあ、はかどる。はかどる。
夢に見た専業詩人の生活だ。とうとう手に入れた。今まで何十年も、母・妻・主婦の兼業だった。……
今は、そういう義理や義務や家事や世話が何もない。一日中仕事ができる。はかどる。はかどる。むなしいくらい仕事がはかどる。
……時差ボケで寝てると「夜また眠れなくなるよ」と夫に起こされた。そのときの辛さといったらないのだった。泥沼から藻や何やらがひっからまった状態でずるずるひきだされるゴミみたいな気分になった。
親の介護があった頃だった。あたしはいつも日本に行ってて、いつも留守で、いつも時差ボケだった。そしてそれに、夫は内心ものすごく不満を募らせていたんだと思う。
今はそれもない。安心して日本から帰ってこられる。時差ボケに身を委ね、眠い時に寝て、目が覚めたら何時でも仕事にかかる。はかどる。はかどる。本望じゃ。
しかしながらリアルがない。
(p. 108-9)