井上靖『本覚坊遺文』(講談社文芸文庫)

 それがこんど、大徳屋の主人の誘いを素直に受けて、有楽さまの隠居所の候補地の下見にのこのこついて行くようになったのは、私に誘いをかけてくれたその時の大徳屋の主人の言葉に、ふと抵抗できないもののあるのを感じたからである。

 ――まあ、一度会ってみなされ。織部さまともお親しかった方で、織部さまのことについては、師の利休に殉じたのだとおっしゃっていなさる。

 こう聞いた瞬間、ふいに眼の前が明るくなるような思いを持った。それならば有楽さまにお目にかかってみようと思った。師利休に殉じたということの正確な意味は分からなかったが、織部さまの事件に関して初めて聞く言葉でもあれば、またその言葉には、どこかに織部さまを優しく抱きとって上げているところがあるように感じられた。

 織部さまのことが噂されると、必ずどこかに謀反という言葉が顔を出した。ぞっとするような厭な言葉である。どう考えても、織部さまと謀反とは結び付かなかった。しかし、いかなる場合でも、煮えたぎる思いを抱きしめて、黙っているしか仕方がなかった。死を賜って果てた織部さまをかばうことはできなかった。それなのに、師利休に殉じたとは、なんという大きく抱きとったおっしゃり方であることか。その意味がどのようなものであれ、そのようなことを口にされたというのであれば、その方に、一刻も早くお目にかかってみたい気持だった。

(p.111)

 

……そういえば、師利休は、また高山右近さまの茶についても言われたことがあった。

 ーー自分より三十歳も若い南坊(高山右近)どのであるば、今日はどうしても及ばないと思った。尤も今日に限ったことではない。いつも同じような思いにさせられる。どこかに自分を棄てて、これが最後といったところがある。あの静かさは普通では出て来ない。誰も及ばない。

……

 それはそれとして、師利休がお褒めになるように、本覚坊の眼にも高山右近さまはいつもご御立派に見えた。もし茶室に於けるお姿の立派だった方を一人選ぶとすれば、本覚坊の場合も亦、高山右近さまということになりそうである。バテレン信者というものがいかなるものであるか、本覚坊如きの知ろう筈はないが、死を覚悟しているという見方をすれば、高山右近さまには、いつもそういうところがおありだったかと思う。そういうところを、師利休は自分の及ばないところとお考えになっていらっしゃったのであろう。

(p. 176-7)

 

 師利休は、太閤さまが茶室に入って一番立派だった時は、天正十年から十一年にかけてであったとおっしゃったことがあった。天正十年は明智さまを山崎に破った年であり、天正十一年は柴田勝家さまを北ノ庄に討った年である。太閤さまは太閤さまで、やはりあの二つの合戦を前にして、師利休立会いのもとに、死地に向かう式、死の固めの式を執り行われたということであろうか。

(p. 178)

 

 解説 高橋英夫

 

 ーー”無”と書いた軸を掛けても、何もなくなりません。”死”と書いた軸の場合は、何もかもなくなる。”無”ではなくならん。”死”ではなくなる!

 

 こう語ったのは利休の声だったのか、山上宗二の声だったのか、それともそこに居合わせたもう一人の客の声だったのか。それは分らない。しかし作者がこの言葉によって、利休の茶道の悲劇的完成としての「死」は、伝統的東洋思想の「無」さえも超えていた、と示唆しているのは明らかだろう。そこには利休の内面における異常なまでの激しさが感じられる。利休の茶は単なる美や風雅のわざではなく、死を獲得するために人間と人間がいのちを突きつけあう儀式であったのだ。

(p.205)