森田達也 田代志門編著『鎮静と安楽死のグレーゾーンを問う 医学・看護学・生命倫理学・法学の視点』(中外医学社 2023)  11-13 一家・市原・稲葉・森田・田代

11 終末期医療・終末期鎮静をめぐる医事法学的検討 一家綱邦

 

終末期鎮静を検討する時点で意思決定能力を有さないと判断される患者で、家族に代行決定する立場を認める理由として

 

①家族が患者の意思を最もよく知る立場にあること

②医療側にとっては家族の同意を得ることで事後の法的トラブル発生を予防する狙いがあること

③法律上の特別な地位が認められる場合があること(主な想定は、医療行為に基づく損害賠償請求権の発生先としての家族)

④家族が医療費の実質的な負担者であること

 

ただし、一家は、これらと家族が代行決定者になることとに「理論的必然性はなく、法的根拠もない」とする。

 

……むしろ(医療行為の医学的妥当性に対する責任を家族側に委ねることはできないのであり)、治療方針を適切に立てるために適切なものに他者決定を委ねることも、重要な医療行為の一環として考えれば、①の視点を重視して、患者の意思をよく知り得ること、さらには患者の利益を代弁できることを、家族を含めた患者の近親者に代行決定を委ねるための要件と考えるべきである。

(p. 220)

 

   終末期鎮静の実施については、患者の意思を確認できないばあに、推定的同意によって正当化できるかについて刑法学上は議論が分かれるようである。生命という法益を放棄することは、法益主体である本人の明確な同意があっても完全には認められていないという立場に立てば、推定的同意で終末期鎮静(間接的安楽死)を正当化できない。しかし、一般的に、生命予後の短縮という不利益を甘受してでも耐え難い苦痛から逃れたいという意思があると合理的に推定されることが多いとすれば(死期の切迫を前提として)限られた正の字間よりも苦痛の緩和を優先するという意思を推定することが許され、必ずしも患者の明示的な意思表示を要求しない立場もある。

(p. 221)

 

……端的に言えば、手続き的正義とは、正しい医療(特に終末期医療において)であることの実態的な要件(医療行為の妥当性や患者の意思の内容など)を明らかにすることの難しさを鑑みたうえで、適正な手続きを実施して出した結論であれば、その結論は尊重されるという考え方である。そして、適正な手続きを踏むなかで、患者の推定意思の真正性や患者の回復可能性・予後の判断の精確性などの実態的な正しさを獲得することになるだろう。

(p, 224)

 

 翻ってわが国の状況を見れば、救命医療の差し控えまたは終了および終末期鎮静が実施されることが否定されることはなくても、それは患者の権利として認められているのかと問われると正確な答えに窮する。それどころか、終末期鎮静以前にそもそも医療一般を受けることが患者・国民に保障された権利なのかが明らかではない。

(p. 226)

 

……この状況をインフォームド・コンセントに関する法律の条文とされることのある医療法第1条の4第2項「医師、歯科医師、薬剤師、看護師その他の医療の担い手は、医療を提供するに当たり、適切な説明を行い、医療を受ける者の理解を得るよう努めなければならない」を例にとって説明すれば、国は医療者に対して患者への説明と同意取得を努力義務として課すが、医療者が義務を負う直接の相手方は国であって患者ではないという歪な関係になっている。 

 そして、医療者・医療機関と患者(国民)との間を直接規律する法律がない代わりに、当事者同士が訴訟の場で争い、その結果の蓄積によって両者の法律関係が形成されてきた。既述の通り、国は法を用いて医療の内容を直接規制することは控えるべきだが、医療者が医療の内容をよくするために、その専門性を十分に発揮できる環境を作ること、そうして医療のレベルを相対的に維持することは国の義務である。しかし、実際には、国はそのようなマクロ的視点での義務を十分に果たさず、医療の内容を維持するための努力を個々の医療者・医療機関および患者といったミクロの関係に(しかも、決して協調的とは言えない関係に)任せてしまっているのではないか。

(p. 227)

 

……医療関係者が患者の権利を規定することに積極的になれない理由は、それによって患者の立場が強くなることを危惧すると推察する。しかし、それは医療基本法における患者の権利の異議を正確に理解していない。

(p. 228)

 

……本稿が緩和医療(特に終末期医療、終末期鎮静)に携わる医療者に提案したいのは、医療基本法制定という手段を通じて、自分たちの担う医療全体の充実を図ること、その基盤の上で個々の臨床現場での個々の患者の対応を考える中で、法的に内容が詰められた患者の権利を充足するための検討を行うことである。

(p. 228)

 

12  持続的深い鎮静の刑法的問題 市原亜貴子

 

……通常、個人的法益については、その持ち主がその保護を放棄することが可能である。当該法益の持ち主がその法的保護を求めない場合には、たとえその法益が侵害されたとしても刑法は介入せず、したがって犯罪は成立しない。ところが、同意殺人が犯罪として可罰的であるということは、生命という法益については、刑法はその完全な処分権を持ち主自身にも認めてないということになる。言い換えれば、被害者が自らの生命について法的保護を放棄しようとしても、その要保護性は(減少はするものの)完全には失われないのである。

 ところが、そのれにもかかわらず(積極的安楽死はともかくとして)消極的安楽死及び間接的安楽死については、それらが一定の要件を充たす場合には犯罪の成立が否定され得ることについてはほぼ異論がない。患者の死が差し迫っている場面においては、極めて例外的に、一定の条件の下で刑法による生命保護よりも本人の自己決定が優先され得ると考えられている。

(p. 233)

 

平成7年3月28日判決(東海大学安楽死事件判決)が、安楽死の一般的許容要件の1つでとして「患者について死が避けられず、かつ死期が迫っていること」をあげたうえで、その理由を、「苦痛の除去・緩和の利益と生命短縮の不利益との均衡からして、死が避けられず死期が切迫している状況ではじめて、苦痛を除去・緩和するための死をもたらす措置の許容性が問題となり得る」としている。いったん生命の保護の相対化を認めてしまうと、極端に言えば「価値のない生命」は保護しなくてよいという方向にも進みかねないため、慎重にならざるを得ないのである。

(p/ 239)

 

 現実問題として、患者の意思を明確に確認することができる場合にしか持続的深い鎮静を行えないとすることは、激しい苦痛に苛まれている患者を苦痛から解放することが(できるはずであるのに)できなくなる可能性がある、ということは筆者も理解している。推定的同意による持続的深い鎮静によって救われる患者は少なくないだろう。しかし、現行形法の解釈論としては、患者本人の意思が不明な場合に、その意思を推し量ることで生命短縮の可能性のある持続的深い鎮静を行うことは、なお許されないと考える。

(p. 245)

 

コラム ③鎮静の手引きと、法 稲葉一人

 

……例えば、自己決定権という言葉も、憲法13条等をもとに新しい人権の一つとして価値とすることで法学者間ではまとまっているが、これとて、憲法13条に「自己決定権」という文言があるわけではなく、「解釈」という操作によって導き出されており、どこまで自己決定という価値が尊重されるのかの外延は議論が尽きないのである(たとえば、後述の安楽死を求める医師の位置づけ)。……わが国では、法によって生命倫理的な問題に対処するという立法政策は採られず、患者権利法といった基本法や、苦痛緩和行為の根拠を示す法律もない。

(p. 247)

 

まとめ 13 苦痛緩和のための鎮静 論点は何か? 森田達也 田代志門

 

 そうすると、妥当な論の立て方の一案としては、時間~日の単位の鎮静については、生命予後を縮めないと主張することによって、患者は個人に見合った(実際に受けてみたらこれこれであれば鎮静は受けなかったと言わないくらいの)説明を行うことを原則として、患者に意思決定能力がない場合には、患者の意思の推定にはつとめ、推定もまったくできない場合には患者にとっての最善の利益(best interest)をチームで検討することで是とせざるをえない。これは、治療中止において厚生労働省の「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」と同じ立場であって、治療中止が死を確実にもたらす一方で、死亡直前期の鎮静は苦痛緩和という医療行為であって必然的に死をもたらすものではないということから、十分に是認できると思われる。

 対照的に、…… 生命予後を短縮する可能性がある場合の鎮静については、一家も市原と同じく「最善の利益」による正当化は困難だと指摘していることには注意しておきたい。

  ところで、推定医師や最善の利益においてはチームでの判断が求められるが、今井の「医療チームでの判断そのものが偏っている可能性がある」との指摘は重い。……「患者の身になって」検討してみた東森でも、自分たちの価値観に色濃く染まっている可能性を(鎮静する側もしない側も)意識化しようとする必要がある。

(p. 262)

 

 一方、患者体験から見るとどうなるだろうか。外科医とのやり取りのできる意識は深い鎮静と安楽死ではなくなることに相違ないが(これに価値を見出すかどうかは人それぞれであろうが)、内在化した意識は深い鎮静でも存在している可能性がある。また、しばしばいわれることとして、鎮静では死の時は自然に任されており、人間がコントロールしない点も安楽死と異なる。この「亡くなる時期が自然に任せられている点も倫理的に重要な点であろう。

(p. 267)

 

mori

 

 

 

森田達也 田代志門編著『鎮静と安楽死のグレーゾーンを問う 医学・看護学・生命倫理学・法学の視点』(中外医学社 2023) 6-10 田村・ 明智・馬場・池永・田代・有馬・清水

6 精神的苦痛をもつ患者に対して緩和ケアはどう対応できるのだろうか? 田村恵子

 

 緩和ケアとは、生命を脅かす疾患に伴って生じる身体的、精神的、社会的そしてスピリチュアルな苦痛を緩和することにより、死にゆくことを自然な過程として、患者が最期まで能動的に生きられるように支援するケアであり、全人的苦痛(totl Pain)の緩和を目的としている。

(p.94)

 

 苦痛は通常、ある疾患の症状として身体にある侵襲が加わった場合に生じる痛みを指している。苦悩とは、自己の人間としての統合性に対する脅威で、脅かされたり、破壊されたりするときに生ずるものであり、苦痛と苦悩は異なる。例えば、患者が非常に強い疾患を訴えていても、その原因が判明して薬剤で柔ら会下られることが可能な場合には、患者はその痛みを我慢できる。だが、それほど強い疼痛ではないが、その現認が不明で、しかも今後の見通し立たたない場合には、患者は痛みから片時も会移封されることはなく、これからどうなっていくのかわからず不安を感じ苦悩する。この場合、疼痛はその患者の身体の一部分で生じることではあるが、苦悩はその患者の全人(whole person)で生じたことにほかならず、全人に生じたことはあらゆる部分に生じたことであり、苦悩からの解放には全人的ケアが必要である。

(p/ 95)

 

……死を意識することを通して、人は人として完全に覚醒するがゆえに、患者が病気や人生の意味、理不尽な出来事への問い、死後の世界への恐れなどのスピリチュアルペインを感じ苦悩する。こうした点からも、精神的苦痛とスピリチュアルペインは異なる苦痛であると理解することが可能である。

(p. 101)

 

 生命予後が比較的長いと見積もられる患者に鎮静を行った場合は、生命予後を短縮する幅が大きくなることが手引書では指摘されているが、実証研究において、鎮静を行ったからといって患者の生命予後が短くなることはないことが示唆されている。肝心なことは患者の苦痛が鎮静でしか緩和できないか否かを判断することであり、この点については医師を含む多職種チームでの検討が必須である。実際に、鎮静を行うことになった場合には、多職種チームメンバーの一人一人が、患者の今の耐えがたい苦痛を緩和するという意図で鎮静を提供する、という共通の認識を持つことが重要である。

(p. 105)

 

……患者と家族がどれほど話し合っても鎮静についての考えが異なる場合は、鎮静に限ったことではないが、やはり患者の意思に沿うことが基本であり、家族の役割は患者が意思表示できないときにのみ代弁者となりうることを念頭に置いておくことも大切である。

(p. 107)

 

 安楽死については、今後ますます合法化する国は増えていくであろうし、国内でもその動きは活発化するであろう。こうした状況のなかで、これまで緩和ケアに長く従事してきた者としては、患者が安楽死を考えざるを得ないじょうきょうにおいこまれることのないように、緩和ケアは何をどこまでできるのか、また、すべきなのかをしっかり追求しなければならないと考えている。

 併せて、患者であるその人の最後に居合わせることを許された医療者として、安楽死を選択せざるをえないという窮地にある人が、いま一度、関係性のなかで生きるという一筋の光を見出せるよう、ケアを続けていくことを大切にしたいと思っている。

(p. 109)

 

7. 抑うつ状態の患者に鎮静・安楽死を提供することは許容されるのか? サイコオンコロジーの立場から 明智龍夫

 

 翻って、合理的な自殺はあるのか、という点を考えてみると、推測ではあるが、多くの精神科医は、ある、と答えるのではないだろうか。ただし、そのような状況が人生に起こることはかなりまれであると思われるし、精神科医が自殺を合理的と考えることがあっても、それを予防すべきでないと考えることとは同列ではない。

(p. 123)

 

  前述の内容を読んでいただくと、私自身は、終末期のある状況では鎮静も安楽死も許容されうると考えていることがご理解いただけるのではないかと思う。一方、許容できない状況としては、やはり終末期でない患者の慢性・重症のうつ病まで含めるのは現時点では個人的に反対である。慢性・重病のうつ病については、自然家庭でも改善する可能性が否定できないし、将来治療法が出てくる可能性も否定できないためである。

(p. 124)

 

明智が引用している科学哲学者、村上陽一郎の「医師の覚悟」

1)人の命をすこうと全力を尽くす覚悟

2)全力を尽くしても救えない命はあり、そのまま見送らなければならない数の方が多いという事実に直面する覚悟

3)自分が最初に立てた、人の命を救おうという誓いに背いてでも、患者の苦しみを思いやって、慈悲の死を与える覚悟

(p. 125)

 

8 苦痛緩和のための鎮痛の疼痛学・麻酔医学からみた課題 馬場美華

 

 WHOによるがん疼痛マネジメント209年で、がん疼痛の治療目標は「がんによる患者の痛みは可能な限り軽減されるべきだが、すべての患者の痛みを完全に取り除くことは不可能である。したがって、疼痛マネジメントは、患者が許容できる生活の質(QOL)を確保できるレベルまで痛みを軽減することである」としている。治療目標は、痛みをゼロにすることではなく、患者が許容できるQOLを確保することとしている。目標にADLの工場は含まれないのは、がん患者では痛み以外の様々な要因でADLの低下が避けられないことが起こりえるからだと推察される。

(p. 141)

 

コラム ①現場での悩み 何が本人にとっての最善の治療方針なのか 池永昌之

 

……近年、このインフォームド・コンセントの概念が、その選択の責任を同意者が負うという形式が強くなり、ある意味インフォームド・コンセントがあれば、治療による不利益も含め、患者の希望に即した医療を実践しているかのような誤解も生じるようになってきた。医療が高度に進歩した現在、単に選択肢を提示し、決定を患者と家族に任せるのではなく、ACPを行い患者の価値観や人生観を医療者が十分に理解したうえで、本人にとっての最善の治療・ケアの方針を提案する意思決定支援、つまりShared Decision Making(共同意思決定)の概念が医療やケアの決定には重要であると考えられるようになってきている。

(p・158)

 

9 持続的深い鎮静の倫理 安楽死とは何が違うのか  田代志門

 

 実際、鎮静の実践は施設ごと医師ごとの考え方の違いも大きく、医療従事者は自分の見てきた現場を念頭に置いた主張にコミットしやすい。「医師があまりにも厳格に適応を考えるため患者の苦痛が放置されている」「まだやれることがあるのに患者を寝かせようとする医師がいて困っている」といった声はいずれもその現場則アイティを伝えているのだろう。そのため、鎮静のルールを考える際には、こうした両極端の事態をともに気にかけつつ議論を進めていくことが求められる。

(p. 160)

 

 哲学者の飯田恒之の表現を借りれば、「『苦痛からの解放』が、その解放された状態を甘受する意識を喪失することで初めて実現されるという逆説的状況」がここにはある。以上の認識を共有する限りにおいて、持続的深い鎮静は緩和ケアのなかで特殊な位置を占めていることは明らかである。

(p/ 162)

 

  まず確認しておきたいのは、こうした行為は日本国内では合法化されていないものの、仮に合法化されたとしても緩和ケアの一部として正当化することは困難である、という点である。例えば、WHOの緩和ケアの定義を見てみるとそこには「痛みやその他のつらい症状を和らげる」「生命を肯定し、死にゆくことを自然な過程(normal process)と捉える」といった要素に加え、「死を早めようとしたり遅らせようとしたりするものではない(intends neither to hasten or postpone death)」という点が明示されている。ここからわかることは意図的に生命予後を短縮する安楽死はこの定義に反している、という事実である。

(p. 163)

 

……生命維持治療の差し控え・終了は広い意味では患者による「治療拒否」の範囲内とも考えられるが、積極的安楽死や自殺幇助は単なる「拒否」ではなく積極的な介入の要請である。このことから生命維持治療の不開始・終了は緩和ケアの一部に含めることが可能なのに対し、安楽死は明らかにその外側に位置している。それゆえ、世界各国の緩和医療の専門家の多くは安楽死に反対する一方で、生命維持治療の差し控えや終了には反対していない。

(p. 163)

 

ソーンダースなどホスピス運動の先駆者たちは「安楽死運動を明確に批判してきた」。

 

……ホスピス運動は、むしろ「生きていたい」と思えるような環境を整備することこそが解決であると考え、死にゆく過程に人為的に介入すること、とりわけ自らの死のタイミングを決めることを「権利」として確立することとは距離を置いたのである。それは一つにはSaundersをはじめとする医療者たちが、患者たちの「死にたい」という訴えは文字通り実現されるべきものではなく、ケアされるべきものだと考えたからである。

(p. 164)

 

 日本緩和医療学会による「手引き」の「Ⅵ章 倫理的検討」 鎮静の倫理的妥当性を担保するものとして以下の4要件が明示されているとのこと。ただし、その「実質的な解釈は変化している」(p. 165)

1)相応性

2)医療者の意図

3)患者・家族の意思

4)チームによる判断

 

相応性について、考慮すべき事項

①苦痛の大きさ

②治療抵抗性の確実さ

③予想される生命予後

④効果と安全性の見込み

 

 ところで、一般的には医療行為の倫理性を問う場合には、患者の意向とは別の視点として、その選択肢が患者に与える利益・不利益を客観的に評価することが求められる。いわゆる「予益(beneficience)」原則に沿った検討である。……それは必ずしも患者の意向と一致するとは限らない。この点で、相応性の評価は患者の意向とは独立して行う必要がある。

(p. 166)

 

この観点から、「苦痛の治療抵抗性」「患者の予測kされる生命予後」「患者の苦痛緩和の意思」の掛け合わせとして「相応性原則にのっとった検討とする森田達也の考え方を、「この図式では、鎮静の可否を決める際にリスク・ベネフィット評価がどこ二一づくのかが不明瞭である」としている。(p. 167)

 

……日本緩和医療学会の鎮静に関するガイドライン・手引きは、以前から鎮静をいったん始めたら死亡まで無前提に継続することを認めず、必ず定期的な評価を行い、継続の意思決定を求めているという特徴を有している。先にも述べたように、この点は安楽死との区別を明確化する者として評価できる。というのも、いったん致死薬の投与を行い患者が死亡した場合にはその過程は完全に不可逆的であるが、鎮静の場合には(特に日本の「手引き」に沿った鎮静の場合には)可逆的あることが担保されているからである。

(p. 170)

 

 本書総論で取り上げている安楽死とのグレーゾーンにある鎮静は、「手引き」においては補注において「ゆっくりとした安楽死(slow euthanasia)」の問題として取り上げたものと一部重なっている。これは具体的には、比較的全身状態の良い患者に対する持続的深い鎮静である。また、こうした場合には生命維持治療の終了を伴うことが多いが、それも含めて「手引き」においては、現在の要件に従う限り、現時点でこうした鎮静を倫理的に妥当なものとすることはできない、と結論付けており、著者自身もこの立場を支持している。

(p. 171)

 

……倫理学者の小林亜津子はこのタイプの鎮静を批判する論文の中で、「人為的な『鎮静』下での生命維持治療のシャットアウトは、『消極的安楽死』で想定されていた『死にゆく過程をさえぎらないこと』とは状況が異なる」と指摘しているが、この認識は正しい。すなわち、鎮静と生命維持治療の終了が同時になされることにより、各々が単独で実施される場合とは行為の意味が大きく変質してしまうのである。

(p. 172)

 

……どれほど関係者の間で鎮静薬の投与は意識低下によって苦痛を感じなくなることなのだ、と言葉に出して共有していたとしても、関わった人々はどこか心の中で生命短縮の可能性を考えたり、場合によっては死が早まった方が本人も家族も楽になるのではないかと感じたりするのである。それは行為の「意図」とよべるものではないにしても、各々の「思い」であることには変わりはない。

(p. 176)

 

10 患者の利益と医師の意図 鎮静と安楽死はどのくらい似ているか?

 

……たとえ使う薬の名前が同じでも、投与量やペースには明らかな違いがある。そのため、たとえば実際の投薬の様子を見て、それが一般的に鎮静と呼ばれている処置なのか、それとも安楽死と呼ばれている処置名のあを判断できにくいということは考えにくい。

(p. 178)

 

  ここまで検討してきたかぎりでは、持続的で深い鎮静と安楽死の道徳的な差は、あってもあまり大きくないと結論すべきであるように思われてくる。まず、両者について帰結だけを比較すると、少なくとも患者の主観的な経験への影響に関するかぎり、まったく差があるとは思われない。どちらも患者からすべての経験を奪うからである。

(p. 196)

 

 著者自身は、鎮静も、安楽死も、極めてまれなごく一部のケースにかぎって正当化できると考えている。しかし、実際に安楽死を合法化している国や地域のルールはどこも許容範囲が広すぎる。鎮静についても適応の範囲は極めて慎重に検討するべきである。(p/ 199)

 

コラム ②予想と決定・均衡と相応・選択と実践 清水哲郎

 

人工的水分・栄養補給や人工呼吸について「差し控えと中止」とされてきたが、「差し控えと終了」を使う方向に用語が変わりつつあるとのこと。「中止」だと「本来は継続することが望まれるが何らかの事情でそれが出来なくなった」というニュアンスになるため。

 

医学的妥当性を踏まえ適切な意思決定プロセスを経て終わりにすると決めた以上は、「終了」が相応しいという考えである。このような状況を鑑みれば、「持続的」の定義も次のガイドライン改訂に際しては、「終了する時期をあらかじめ定めずに」となることが適切であろう。

(p. 202)

 

……本来、緩和を意図する対応が、死期を早める副作用を持つといった場合、方角系から出た「間接的安楽死」という用語の定義に当てはまるとしても、それは直ちに「だから倫理的に不適切だ」という結論にはならない。しかし、このように主張した側は批判としてこのようなレッテルを貼り、言われた側にも少なからず動揺があった。「安楽死」という語が医療界で持つ否定的な響きにより脅されたのである。以来、私はグローバルには適用しない。かつ、「安楽死」という語ないし概念が指示する対象を無意味に広げるような「間接的安楽死」は死語にしようと言い続けてきた。

(p. 203)

 

……私は「持続的鎮静」に際しては、「死に至るまでずっと沈静し続ける」という意図ではなく、「死に至るまで鎮静を続行せざるを得ないだろう」という予想を伴いつつ、差しあたっていつまでという限定なしに(したがって、「死に至るまで続ける」という決定もなしに)始めることを提唱したのだった。……

 ただし、私は「死に至るまで行う」という意図ではなく、「死に至るまで続けざるを得ないだろう」という予想が伴っているという考え方は、批判をかわすための便法などではなく、これこそ実行者の意図についての、精確な記述なのだと考えていた。このことを鎮静ガイドライン作成のための会議席上で、次のように話したことを覚えている(以下は、あくまでも記憶を再構成した私の物語である)。

 

 先生方は持続的鎮静を開始する時に「死に至るまで続ける」という行為をしていると思われますか? 「苦痛を感じなくなるまで意識レベルを下げる」とご自分の現在の行動を把握することは適切でしょう。でも「死に至るまで鎮静を続ける」行動って、今できることですか? ……

 そもそも、「死に至るまで」と思いながら始めたとしても、途中で本人の状態が好転して、「これなら鎮静を終わらせても、苦痛なく過ごせるかも」と思うことが仮にあったとしたら、どうなさいますか? 鎮静をやめますよね。つまり、「死に至るまで」は予想であり、意図だとしてもせいぜい暫定的な、つまり、将来変更するかもしれないもので、確定的なものではないのです。

(p. 204)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

森田達也 田代志門編著『鎮静と安楽死のグレーゾーンを問う 医学・看護学・生命倫理学・法学の視点』(中外医学社 2023) 1-5 森田・新城・今井

www.chugaiigaku.jp

 

……2000年代に世界各国で、「死亡直前の緩和できない苦痛に対して鎮静薬を最小量使用すること(palliative sedation)は妥当な医療行為である」とのガイドラインが作られた。しかしその後、もともとはガイドラインで想定していなかった、生命予後がまだ期待できそうな患者、治療抵抗性があいまいな精神的苦痛に対して使用されるようになっていることを示唆する知見が出され、さらに、フランスの持続的鎮静法という従来の、ほかに手段のない死亡直前の強い苦痛を和らげるlast resortとしての鎮静とは異なる鎮静が立法化された。これらの動きは医療者側がというよりも、患者側の苦痛緩和や自分の望むような最期を迎えたいという希望に押される形で展開している。その結果、狂う緩和のための鎮静と安楽死とのグレーゾーンが広がっており、国際的にも国内的にも、医学のみならず倫理学法学など学際的な議論が必要である状態といえる。

(p. 16 森田)

 

4 鎮静は患者の苦痛を緩和する最後の手段になるのか? (新城拓也)

 

最初に、新城自身の医師としての経験とありようの振り返り。

医師になってから内科医として病院で働いた1996年から2001年。

 

……病気は苦しいもので、苦しさというのは、原因が治療されない限りは当たり前のことという信念を経験から勉強していた。自分が病室を出てしまえば、患者の苦痛や、それを見守る家族の苦痛はないものと同じになった。たとえそこに患者の苦痛が存在しても、医師としての自分が関心をもたなけれければ、苦痛は存在しなくなる。私はそうやって、苦しむ患者に関心をもたないまま、自分の信念を補強していった。その時点での本質は、治療できない病気は「仕方ない」だ。私は苦痛の緩和は自分の仕事だと思えなかった。

(p. 51)

 

  患者が苦しんでいれば、そばにいる家族もその様子を長時間見ていれば、だんだん苦しくなる。だから患者の苦しみと家族の苦しみは、合わさり倍になる。やがて、鎮静は患者を苦痛から救い出すと同時に、家族を苦痛の場面から救い出すのが鎮静なのだと思うようになった。また情を持って患者、家族にある程度長い時間接していた看護師にとって、患者の死というケアの到達点が、混乱した意識で患者がベッドから落ち、何度もトイレに行きベッドに戻る、意味のない言葉を発する、眠れない夜を過ごし付き添う家族が披露する姿を見続けるのでは、あまりにも残酷だと思った。自分は、鎮静という治療で、すべての人を苦痛から救っていると思うと同時に、死の場面をきれいにしている、浄化しているとも思うようになった。

(p. 54)

 

死の臨床研究会(2000年 広島)の参加を機に、緩和ケア病棟で勤務を始めた2002年から2011年。

 

……当時の教授に、緩和ケアの道を進むため、医局を辞めると緊張しながら正直に伝えたところ、不機嫌な表情になり、「どうして敗戦処理をする専門になろうとするのか。患者の病気を治すのが医師の仕事だ」と言われた。

(p. 55)

 

ガイドラインには書かれていない鎮静の現実」(p. 58)

 鎮静薬、特にミダゾラムには耐性ができる。

 

 現場で私が苦労していたのは、鎮静が直接死に関与したと家族に思わせないことだ。鎮静を始めてから少なくとも数時間は生存するように慎重に投与量を調整した。鎮静の直後に患者が亡くなれば、地位生と死の因果関係がないと医師として主張することはできても、家族や看護師が、「鎮静のために死んだ、死ぬのが早くなった」とかくしんしてしまえば、事後どうすることもできない。

(p. 58)

 

 根本的に、鎮静の調節が難しい一番の理由は、すでに患者の全身状態が不安定になっているためだ。健康者を対象とした内視鏡検査の鎮静であれば、その投与方法は毎回同じで、調節の方法も確立している。しかし、緩和困難な苦痛がある患者は、循環動態も脳のレセプターの反応も健康者とは異なるのか、鎮静薬がまったく効かなかったり、効きすぎたり、効き目がなかなかあらわれなかったりした。なので、投与量を厳密に指示しても、投与される患者の個体差、全身状態によりその効果は事前には予測できないのだ。

(p. 60)

 

 また、鎮静は本当に患者の苦痛を軽減しているのだろうかと、根本的な疑問が今でもある。鎮静は患者の苦痛を緩和するためのものなのに、患者自身から、苦痛の緩和の程度を教えてもらうことができないのだ。

……

 また患者が評価できないなら、主介護者である家族が患者の苦しみを代理する方法を、普段の現場では確認しているだろう。難しい評価方法を知らなかったとしても家族が「苦しくなさそうに見える」なら、鎮静は十分と考えていることだろう。しかし、「患者は苦しくなさそうに見えているだけで、本当に患者は苦痛を体験していないのだろうか」という疑念が付きまとう。

…… なので、患者の主観を他人は、どのようにしてもわかることも測ることもできない。しかし、私たちは「どういう状態なら患者や家族が苦しんでないと言えるか」という核心する条件を詳細にすることはできる。

(p. 61)

 

 鎮静は、私が働いている間に緩和ケア病棟では標準的な治療となってきた。患者の10~20%くらいに、亡くなる3~4日までに必要となることが経験としてわかってきたのだ。しかし相変わらず現場での鎮静の開始に関しては、いつも医療者優位で、カンファレンスで「鎮静をするほかない」と決まってから、患者や家族に説明されることが常だった。……痛みや呼吸困難で苦しい最中に、「鎮静しますかどうしますか」と患者に尋ねるのはフェアじゃないと思った。苦痛に追い込まれていれば「すぐに鎮静してくれ。助けてくれ」と返答するのはわかっていたし、せん妄のように意識障害があり言葉のやり取りができない状態で、仕方なく家族と鎮静を決めるといった、以前のような本人不在の形だけのインフォームドコンセントに疑問を感じていた。

(p. 62)

 

クリニックを開業した2012年から現在

 現実的な困難:医師、看護師の訪問が1日1~2回程度では、鎮静の深度を調節することは困難。そのため在宅では家族でも投与できる座薬を用いるが、「家族が患者の死により加担していると思うようになる」ことに気づき、万一、直後に亡くなった場合に看護師や家族に傷を負わせないために、この方法はできるだけ避けるように。

 

12年以降、使える薬の種類は増え、がんの痛みに医療法麻薬を使う、増減する、他の薬に変える、副作用の対策をする、などは、どの医師も同じレベルになってきたが「苦痛緩和の限界をきちんと判断できる医師はほとんどいなかった」(p.64)

 

 また鎮静という治療を知っていても、……「使ったことがない薬をうまく使うことができない」という理由で、鎮静を避けていることがわかってきた。また基幹病院の緩和ケアチームの回診を手伝うようになって分かったのは、医師と患者と家族の信頼関係が構築されていないと、鎮静のように重大な決断を必要とする治療は始められないと言うことだ。

…… ほとんどの医師は、数回一緒に鎮静の場面を共有し、薬の使い方、患者と家族への説明の仕方、さらに周囲の医療者との討論の仕方を教えて、一度でも一緒に体験すれば、次は一人でできるようになっていった。

(p/ 64)

 

 その後、新城は鎮静という治療があることを広く世の中に知らしめるためにメディアに対して発言し始める。そして、患者から自分のネット上の記事を見せられて鎮静を提案される、という体験をする。

 

 今までのように先に医療者がカンファレンスで鎮静をすると決めてから、鎮静の説明をするのではなく、患者や家族も鎮静を予め知っていれば、自分から鎮静を求める機会を得ることは、よくよく考えれば当たり前のことなのだ。

 医療者は、鎮静の対象になる苦しみが、身体の苦痛なのか精神の苦痛なのか、実存的な苦痛なのかと分類を求める。身体の苦痛であれば鎮静を認め、それ以外では認めない傾向がある。しかし、鎮静が必要な患者は、本人にとっては苦しみの分類をされることに意味はないし、患者詩人が耐えがたい苦痛を訴えているのに、その耐えがたさを医療者が審査されることにも意味はない。……予測される苦痛をあらかじめ回避するのも緩和ケアの一つだと思うが、このような予防的な鎮静に、医療者が忌避感を感じるのはなぜだろうか。

(p. 66)

 

……鎮静は患者の苦痛を緩和する最後の手段になるのか。安楽死は治療方法と言えるのか。まだ議論の論点を定められないとしても、緩和ケアが失敗したときに安楽死を位置付けておかないと、患者の自殺に医師が加担するような現場に私はいられないと思った。恐らく、国内で積極的安楽死ができるようになると、緩和ケアの素養をもち、患者の苦痛を扱い、倫理的な論点で仕事ができる医療者ほど、「いい加減な安楽死をされるくらいなら、自分がきちんとやりたい」と思うかもしれない。責任感の強い意思が、十分な心理的な支援を受けられないまま、信念を曲げて心を痛めながら、安楽死に当たるようになるのだ。まだ国内でも緩和ケアが充分に受けられない現状では、安楽死と鎮静の限界を緩和ケアという言葉で明確に区別しておいた方がよいと思っている。

(p. 67)

 

 鎮静は患者のすべてには必要ないが、必要な患者には確実に実行されなくてはならない。その一番の理由は、残された家族や医療者には、患者の残した苦しみの記憶がいつまでも心の傷として残ってしまうからだ。最期の場面が、その後を生きる人たちに及ぼす影響は大きい。鎮静は患者のためなのか、家族のためなのかという問いを見たことがあるが、当然その両方だと私はこたえたい。さらには、そこに立ち会う医療者のためでもあるのだ。

(p.67)

 

……死を見つめて最期の日々を過ごすよりも、死を意識しないで過ごすことを大切にしている患者は多い。お喋りや世間話で家族や見舞いの客と臨終の人それぞれが、一時死を忘れることで、不安を沈静しているのである。病院の面会制限は、こういった薬を使わない心の鎮静の機会を失っている。

 また面会制限が行われている病室では、患者の苦痛を家族は代理評価できず、また家族のいない病室では、患者の苦痛はよほど大きいものでなければ、勤務交代が常の医療者に静観されることもあるだろう。また反対に、特にせん妄で興奮のある患者に対しては、鎮静が行われやすい状況にあるかもしれない。そのような鎮静は、身体拘束の一つである薬物拘束(ドラッグロック)だ。

(p. 69)

 

 ……終末期の苦痛緩和を目的とした鎮静は、まだ不完全な技術で、実行するうえで考えるべき様々な知識が医療者には不足している。人が最後まで息抜き成長するためには、苦しみが耐えがたいものにならないように、医師をはじめとするあらゆる医療者は、確実な治療技術の習得と思想の研鑽を続けなければならない。苦痛の絶望する患者を救うのは可能性だ。その可能性とはあなた自身のプロフェッショナルな能力に他ならない。常に備えよ。皆さんの前にはまた苦しむ患者が来る。

(p.69)

 

5 死亡直前期の臨床から考える鎮静と安楽死

 

新城と同じく、鎮静薬の調整の難しさについて書かれている。とりわけ、いったん深い鎮静状態になった後の判断。減量しないでいると、血中濃度が上がって「致死量の薬物投与」になりかねず、かといって鎮静レベルを浅くすることには、苦痛の再燃が懸念されて、踏み切りにくい、というようなことが書かれている。

 

 鎮静を実施した患者の家族(遺族)に対して行った調査では、鎮静後に患者の苦痛が十分に緩和されないと、家族の満足度が低下したり、精神的つらさにつながることが報告されている。この点から考えると、持続的深い鎮静のほうが調整型鎮静よりも、より迅速に確実な症状緩和が得られるという点で家族にとっては好ましい可能性がある。一方で、コミュニケーションがなるべく保たれることは、死亡直前期で多くの患者や家族にとって重要である。……医療者との関係性、看護師のケア、医師の治療、心残りのなさなどについては、持続的深い鎮静のほうが、調整型鎮静に比較してより良い評価であった。

(p. 88-9)

 

 どのような場合に鎮静を行うかは、患者の状況や希望にもよるが、医療者、特に医師がどのような信念や価値観を持っているかに依存しやすい。医師の独断ではなく医療チームの判断だとしても、医療チームにも偏りがあるため、その集団では偏りがより強化される可能性がある。

(p. 89)

 

 意図はあいまいであるため、意図に依存した鎮静では鎮静薬の「致死量となる薬物投与」と、積極的安楽死が区別できない。意図ではなく実際にどのように鎮静薬を投与したりモニタリングをしたかで、適切な鎮静が行われたことを裏付ける必要があり、そのためには鎮静薬の投与プロトコルを用いて鎮静を行うことが一つの方法として考えられる。

(p. 90)

 

 今井は、予防的な鎮静や死亡まで継続する持続的深い鎮静や、安楽死の代替えとしての鎮静には慎重。理由は、まず、それらの行為が医学的に正当か疑問。もう一つは、鎮静の適応解釈や安楽死の代替えとしての鎮静の位置づけが進むと、社会的法的に規制がかかり、必要な人に対しても鎮静が手控えられること、死亡直前期の苦痛に苦しむ患者に不利映画生じる恐れ。