6 精神的苦痛をもつ患者に対して緩和ケアはどう対応できるのだろうか? 田村恵子
緩和ケアとは、生命を脅かす疾患に伴って生じる身体的、精神的、社会的そしてスピリチュアルな苦痛を緩和することにより、死にゆくことを自然な過程として、患者が最期まで能動的に生きられるように支援するケアであり、全人的苦痛(totl Pain)の緩和を目的としている。
(p.94)
苦痛は通常、ある疾患の症状として身体にある侵襲が加わった場合に生じる痛みを指している。苦悩とは、自己の人間としての統合性に対する脅威で、脅かされたり、破壊されたりするときに生ずるものであり、苦痛と苦悩は異なる。例えば、患者が非常に強い疾患を訴えていても、その原因が判明して薬剤で柔ら会下られることが可能な場合には、患者はその痛みを我慢できる。だが、それほど強い疼痛ではないが、その現認が不明で、しかも今後の見通し立たたない場合には、患者は痛みから片時も会移封されることはなく、これからどうなっていくのかわからず不安を感じ苦悩する。この場合、疼痛はその患者の身体の一部分で生じることではあるが、苦悩はその患者の全人(whole person)で生じたことにほかならず、全人に生じたことはあらゆる部分に生じたことであり、苦悩からの解放には全人的ケアが必要である。
(p/ 95)
……死を意識することを通して、人は人として完全に覚醒するがゆえに、患者が病気や人生の意味、理不尽な出来事への問い、死後の世界への恐れなどのスピリチュアルペインを感じ苦悩する。こうした点からも、精神的苦痛とスピリチュアルペインは異なる苦痛であると理解することが可能である。
(p. 101)
生命予後が比較的長いと見積もられる患者に鎮静を行った場合は、生命予後を短縮する幅が大きくなることが手引書では指摘されているが、実証研究において、鎮静を行ったからといって患者の生命予後が短くなることはないことが示唆されている。肝心なことは患者の苦痛が鎮静でしか緩和できないか否かを判断することであり、この点については医師を含む多職種チームでの検討が必須である。実際に、鎮静を行うことになった場合には、多職種チームメンバーの一人一人が、患者の今の耐えがたい苦痛を緩和するという意図で鎮静を提供する、という共通の認識を持つことが重要である。
(p. 105)
……患者と家族がどれほど話し合っても鎮静についての考えが異なる場合は、鎮静に限ったことではないが、やはり患者の意思に沿うことが基本であり、家族の役割は患者が意思表示できないときにのみ代弁者となりうることを念頭に置いておくことも大切である。
(p. 107)
安楽死については、今後ますます合法化する国は増えていくであろうし、国内でもその動きは活発化するであろう。こうした状況のなかで、これまで緩和ケアに長く従事してきた者としては、患者が安楽死を考えざるを得ないじょうきょうにおいこまれることのないように、緩和ケアは何をどこまでできるのか、また、すべきなのかをしっかり追求しなければならないと考えている。
併せて、患者であるその人の最後に居合わせることを許された医療者として、安楽死を選択せざるをえないという窮地にある人が、いま一度、関係性のなかで生きるという一筋の光を見出せるよう、ケアを続けていくことを大切にしたいと思っている。
(p. 109)
7. 抑うつ状態の患者に鎮静・安楽死を提供することは許容されるのか? サイコオンコロジーの立場から 明智龍夫
翻って、合理的な自殺はあるのか、という点を考えてみると、推測ではあるが、多くの精神科医は、ある、と答えるのではないだろうか。ただし、そのような状況が人生に起こることはかなりまれであると思われるし、精神科医が自殺を合理的と考えることがあっても、それを予防すべきでないと考えることとは同列ではない。
(p. 123)
前述の内容を読んでいただくと、私自身は、終末期のある状況では鎮静も安楽死も許容されうると考えていることがご理解いただけるのではないかと思う。一方、許容できない状況としては、やはり終末期でない患者の慢性・重症のうつ病まで含めるのは現時点では個人的に反対である。慢性・重病のうつ病については、自然家庭でも改善する可能性が否定できないし、将来治療法が出てくる可能性も否定できないためである。
(p. 124)
1)人の命をすこうと全力を尽くす覚悟
2)全力を尽くしても救えない命はあり、そのまま見送らなければならない数の方が多いという事実に直面する覚悟
3)自分が最初に立てた、人の命を救おうという誓いに背いてでも、患者の苦しみを思いやって、慈悲の死を与える覚悟
(p. 125)
8 苦痛緩和のための鎮痛の疼痛学・麻酔医学からみた課題 馬場美華
WHOによるがん疼痛マネジメント209年で、がん疼痛の治療目標は「がんによる患者の痛みは可能な限り軽減されるべきだが、すべての患者の痛みを完全に取り除くことは不可能である。したがって、疼痛マネジメントは、患者が許容できる生活の質(QOL)を確保できるレベルまで痛みを軽減することである」としている。治療目標は、痛みをゼロにすることではなく、患者が許容できるQOLを確保することとしている。目標にADLの工場は含まれないのは、がん患者では痛み以外の様々な要因でADLの低下が避けられないことが起こりえるからだと推察される。
(p. 141)
コラム ①現場での悩み 何が本人にとっての最善の治療方針なのか 池永昌之
……近年、このインフォームド・コンセントの概念が、その選択の責任を同意者が負うという形式が強くなり、ある意味インフォームド・コンセントがあれば、治療による不利益も含め、患者の希望に即した医療を実践しているかのような誤解も生じるようになってきた。医療が高度に進歩した現在、単に選択肢を提示し、決定を患者と家族に任せるのではなく、ACPを行い患者の価値観や人生観を医療者が十分に理解したうえで、本人にとっての最善の治療・ケアの方針を提案する意思決定支援、つまりShared Decision Making(共同意思決定)の概念が医療やケアの決定には重要であると考えられるようになってきている。
(p・158)
9 持続的深い鎮静の倫理 安楽死とは何が違うのか 田代志門
実際、鎮静の実践は施設ごと医師ごとの考え方の違いも大きく、医療従事者は自分の見てきた現場を念頭に置いた主張にコミットしやすい。「医師があまりにも厳格に適応を考えるため患者の苦痛が放置されている」「まだやれることがあるのに患者を寝かせようとする医師がいて困っている」といった声はいずれもその現場則アイティを伝えているのだろう。そのため、鎮静のルールを考える際には、こうした両極端の事態をともに気にかけつつ議論を進めていくことが求められる。
(p. 160)
哲学者の飯田恒之の表現を借りれば、「『苦痛からの解放』が、その解放された状態を甘受する意識を喪失することで初めて実現されるという逆説的状況」がここにはある。以上の認識を共有する限りにおいて、持続的深い鎮静は緩和ケアのなかで特殊な位置を占めていることは明らかである。
(p/ 162)
まず確認しておきたいのは、こうした行為は日本国内では合法化されていないものの、仮に合法化されたとしても緩和ケアの一部として正当化することは困難である、という点である。例えば、WHOの緩和ケアの定義を見てみるとそこには「痛みやその他のつらい症状を和らげる」「生命を肯定し、死にゆくことを自然な過程(normal process)と捉える」といった要素に加え、「死を早めようとしたり遅らせようとしたりするものではない(intends neither to hasten or postpone death)」という点が明示されている。ここからわかることは意図的に生命予後を短縮する安楽死はこの定義に反している、という事実である。
(p. 163)
……生命維持治療の差し控え・終了は広い意味では患者による「治療拒否」の範囲内とも考えられるが、積極的安楽死や自殺幇助は単なる「拒否」ではなく積極的な介入の要請である。このことから生命維持治療の不開始・終了は緩和ケアの一部に含めることが可能なのに対し、安楽死は明らかにその外側に位置している。それゆえ、世界各国の緩和医療の専門家の多くは安楽死に反対する一方で、生命維持治療の差し控えや終了には反対していない。
(p. 163)
ソーンダースなどホスピス運動の先駆者たちは「安楽死運動を明確に批判してきた」。
……ホスピス運動は、むしろ「生きていたい」と思えるような環境を整備することこそが解決であると考え、死にゆく過程に人為的に介入すること、とりわけ自らの死のタイミングを決めることを「権利」として確立することとは距離を置いたのである。それは一つにはSaundersをはじめとする医療者たちが、患者たちの「死にたい」という訴えは文字通り実現されるべきものではなく、ケアされるべきものだと考えたからである。
(p. 164)
日本緩和医療学会による「手引き」の「Ⅵ章 倫理的検討」 鎮静の倫理的妥当性を担保するものとして以下の4要件が明示されているとのこと。ただし、その「実質的な解釈は変化している」(p. 165)
1)相応性
2)医療者の意図
3)患者・家族の意思
4)チームによる判断
相応性について、考慮すべき事項
①苦痛の大きさ
②治療抵抗性の確実さ
③予想される生命予後
④効果と安全性の見込み
ところで、一般的には医療行為の倫理性を問う場合には、患者の意向とは別の視点として、その選択肢が患者に与える利益・不利益を客観的に評価することが求められる。いわゆる「予益(beneficience)」原則に沿った検討である。……それは必ずしも患者の意向と一致するとは限らない。この点で、相応性の評価は患者の意向とは独立して行う必要がある。
(p. 166)
この観点から、「苦痛の治療抵抗性」「患者の予測kされる生命予後」「患者の苦痛緩和の意思」の掛け合わせとして「相応性原則にのっとった検討とする森田達也の考え方を、「この図式では、鎮静の可否を決める際にリスク・ベネフィット評価がどこ二一づくのかが不明瞭である」としている。(p. 167)
……日本緩和医療学会の鎮静に関するガイドライン・手引きは、以前から鎮静をいったん始めたら死亡まで無前提に継続することを認めず、必ず定期的な評価を行い、継続の意思決定を求めているという特徴を有している。先にも述べたように、この点は安楽死との区別を明確化する者として評価できる。というのも、いったん致死薬の投与を行い患者が死亡した場合にはその過程は完全に不可逆的であるが、鎮静の場合には(特に日本の「手引き」に沿った鎮静の場合には)可逆的あることが担保されているからである。
(p. 170)
本書総論で取り上げている安楽死とのグレーゾーンにある鎮静は、「手引き」においては補注において「ゆっくりとした安楽死(slow euthanasia)」の問題として取り上げたものと一部重なっている。これは具体的には、比較的全身状態の良い患者に対する持続的深い鎮静である。また、こうした場合には生命維持治療の終了を伴うことが多いが、それも含めて「手引き」においては、現在の要件に従う限り、現時点でこうした鎮静を倫理的に妥当なものとすることはできない、と結論付けており、著者自身もこの立場を支持している。
(p. 171)
……倫理学者の小林亜津子はこのタイプの鎮静を批判する論文の中で、「人為的な『鎮静』下での生命維持治療のシャットアウトは、『消極的安楽死』で想定されていた『死にゆく過程をさえぎらないこと』とは状況が異なる」と指摘しているが、この認識は正しい。すなわち、鎮静と生命維持治療の終了が同時になされることにより、各々が単独で実施される場合とは行為の意味が大きく変質してしまうのである。
(p. 172)
……どれほど関係者の間で鎮静薬の投与は意識低下によって苦痛を感じなくなることなのだ、と言葉に出して共有していたとしても、関わった人々はどこか心の中で生命短縮の可能性を考えたり、場合によっては死が早まった方が本人も家族も楽になるのではないかと感じたりするのである。それは行為の「意図」とよべるものではないにしても、各々の「思い」であることには変わりはない。
(p. 176)
10 患者の利益と医師の意図 鎮静と安楽死はどのくらい似ているか?
……たとえ使う薬の名前が同じでも、投与量やペースには明らかな違いがある。そのため、たとえば実際の投薬の様子を見て、それが一般的に鎮静と呼ばれている処置なのか、それとも安楽死と呼ばれている処置名のあを判断できにくいということは考えにくい。
(p. 178)
ここまで検討してきたかぎりでは、持続的で深い鎮静と安楽死の道徳的な差は、あってもあまり大きくないと結論すべきであるように思われてくる。まず、両者について帰結だけを比較すると、少なくとも患者の主観的な経験への影響に関するかぎり、まったく差があるとは思われない。どちらも患者からすべての経験を奪うからである。
(p. 196)
著者自身は、鎮静も、安楽死も、極めてまれなごく一部のケースにかぎって正当化できると考えている。しかし、実際に安楽死を合法化している国や地域のルールはどこも許容範囲が広すぎる。鎮静についても適応の範囲は極めて慎重に検討するべきである。(p/ 199)
コラム ②予想と決定・均衡と相応・選択と実践 清水哲郎
人工的水分・栄養補給や人工呼吸について「差し控えと中止」とされてきたが、「差し控えと終了」を使う方向に用語が変わりつつあるとのこと。「中止」だと「本来は継続することが望まれるが何らかの事情でそれが出来なくなった」というニュアンスになるため。
医学的妥当性を踏まえ適切な意思決定プロセスを経て終わりにすると決めた以上は、「終了」が相応しいという考えである。このような状況を鑑みれば、「持続的」の定義も次のガイドライン改訂に際しては、「終了する時期をあらかじめ定めずに」となることが適切であろう。
(p. 202)
……本来、緩和を意図する対応が、死期を早める副作用を持つといった場合、方角系から出た「間接的安楽死」という用語の定義に当てはまるとしても、それは直ちに「だから倫理的に不適切だ」という結論にはならない。しかし、このように主張した側は批判としてこのようなレッテルを貼り、言われた側にも少なからず動揺があった。「安楽死」という語が医療界で持つ否定的な響きにより脅されたのである。以来、私はグローバルには適用しない。かつ、「安楽死」という語ないし概念が指示する対象を無意味に広げるような「間接的安楽死」は死語にしようと言い続けてきた。
(p. 203)
……私は「持続的鎮静」に際しては、「死に至るまでずっと沈静し続ける」という意図ではなく、「死に至るまで鎮静を続行せざるを得ないだろう」という予想を伴いつつ、差しあたっていつまでという限定なしに(したがって、「死に至るまで続ける」という決定もなしに)始めることを提唱したのだった。……
ただし、私は「死に至るまで行う」という意図ではなく、「死に至るまで続けざるを得ないだろう」という予想が伴っているという考え方は、批判をかわすための便法などではなく、これこそ実行者の意図についての、精確な記述なのだと考えていた。このことを鎮静ガイドライン作成のための会議席上で、次のように話したことを覚えている(以下は、あくまでも記憶を再構成した私の物語である)。
先生方は持続的鎮静を開始する時に「死に至るまで続ける」という行為をしていると思われますか? 「苦痛を感じなくなるまで意識レベルを下げる」とご自分の現在の行動を把握することは適切でしょう。でも「死に至るまで鎮静を続ける」行動って、今できることですか? ……
そもそも、「死に至るまで」と思いながら始めたとしても、途中で本人の状態が好転して、「これなら鎮静を終わらせても、苦痛なく過ごせるかも」と思うことが仮にあったとしたら、どうなさいますか? 鎮静をやめますよね。つまり、「死に至るまで」は予想であり、意図だとしてもせいぜい暫定的な、つまり、将来変更するかもしれないもので、確定的なものではないのです。
(p. 204)