森田達也 田代志門編著『鎮静と安楽死のグレーゾーンを問う 医学・看護学・生命倫理学・法学の視点』(中外医学社 2023)  11-13 一家・市原・稲葉・森田・田代

11 終末期医療・終末期鎮静をめぐる医事法学的検討 一家綱邦

 

終末期鎮静を検討する時点で意思決定能力を有さないと判断される患者で、家族に代行決定する立場を認める理由として

 

①家族が患者の意思を最もよく知る立場にあること

②医療側にとっては家族の同意を得ることで事後の法的トラブル発生を予防する狙いがあること

③法律上の特別な地位が認められる場合があること(主な想定は、医療行為に基づく損害賠償請求権の発生先としての家族)

④家族が医療費の実質的な負担者であること

 

ただし、一家は、これらと家族が代行決定者になることとに「理論的必然性はなく、法的根拠もない」とする。

 

……むしろ(医療行為の医学的妥当性に対する責任を家族側に委ねることはできないのであり)、治療方針を適切に立てるために適切なものに他者決定を委ねることも、重要な医療行為の一環として考えれば、①の視点を重視して、患者の意思をよく知り得ること、さらには患者の利益を代弁できることを、家族を含めた患者の近親者に代行決定を委ねるための要件と考えるべきである。

(p. 220)

 

   終末期鎮静の実施については、患者の意思を確認できないばあに、推定的同意によって正当化できるかについて刑法学上は議論が分かれるようである。生命という法益を放棄することは、法益主体である本人の明確な同意があっても完全には認められていないという立場に立てば、推定的同意で終末期鎮静(間接的安楽死)を正当化できない。しかし、一般的に、生命予後の短縮という不利益を甘受してでも耐え難い苦痛から逃れたいという意思があると合理的に推定されることが多いとすれば(死期の切迫を前提として)限られた正の字間よりも苦痛の緩和を優先するという意思を推定することが許され、必ずしも患者の明示的な意思表示を要求しない立場もある。

(p. 221)

 

……端的に言えば、手続き的正義とは、正しい医療(特に終末期医療において)であることの実態的な要件(医療行為の妥当性や患者の意思の内容など)を明らかにすることの難しさを鑑みたうえで、適正な手続きを実施して出した結論であれば、その結論は尊重されるという考え方である。そして、適正な手続きを踏むなかで、患者の推定意思の真正性や患者の回復可能性・予後の判断の精確性などの実態的な正しさを獲得することになるだろう。

(p, 224)

 

 翻ってわが国の状況を見れば、救命医療の差し控えまたは終了および終末期鎮静が実施されることが否定されることはなくても、それは患者の権利として認められているのかと問われると正確な答えに窮する。それどころか、終末期鎮静以前にそもそも医療一般を受けることが患者・国民に保障された権利なのかが明らかではない。

(p. 226)

 

……この状況をインフォームド・コンセントに関する法律の条文とされることのある医療法第1条の4第2項「医師、歯科医師、薬剤師、看護師その他の医療の担い手は、医療を提供するに当たり、適切な説明を行い、医療を受ける者の理解を得るよう努めなければならない」を例にとって説明すれば、国は医療者に対して患者への説明と同意取得を努力義務として課すが、医療者が義務を負う直接の相手方は国であって患者ではないという歪な関係になっている。 

 そして、医療者・医療機関と患者(国民)との間を直接規律する法律がない代わりに、当事者同士が訴訟の場で争い、その結果の蓄積によって両者の法律関係が形成されてきた。既述の通り、国は法を用いて医療の内容を直接規制することは控えるべきだが、医療者が医療の内容をよくするために、その専門性を十分に発揮できる環境を作ること、そうして医療のレベルを相対的に維持することは国の義務である。しかし、実際には、国はそのようなマクロ的視点での義務を十分に果たさず、医療の内容を維持するための努力を個々の医療者・医療機関および患者といったミクロの関係に(しかも、決して協調的とは言えない関係に)任せてしまっているのではないか。

(p. 227)

 

……医療関係者が患者の権利を規定することに積極的になれない理由は、それによって患者の立場が強くなることを危惧すると推察する。しかし、それは医療基本法における患者の権利の異議を正確に理解していない。

(p. 228)

 

……本稿が緩和医療(特に終末期医療、終末期鎮静)に携わる医療者に提案したいのは、医療基本法制定という手段を通じて、自分たちの担う医療全体の充実を図ること、その基盤の上で個々の臨床現場での個々の患者の対応を考える中で、法的に内容が詰められた患者の権利を充足するための検討を行うことである。

(p. 228)

 

12  持続的深い鎮静の刑法的問題 市原亜貴子

 

……通常、個人的法益については、その持ち主がその保護を放棄することが可能である。当該法益の持ち主がその法的保護を求めない場合には、たとえその法益が侵害されたとしても刑法は介入せず、したがって犯罪は成立しない。ところが、同意殺人が犯罪として可罰的であるということは、生命という法益については、刑法はその完全な処分権を持ち主自身にも認めてないということになる。言い換えれば、被害者が自らの生命について法的保護を放棄しようとしても、その要保護性は(減少はするものの)完全には失われないのである。

 ところが、そのれにもかかわらず(積極的安楽死はともかくとして)消極的安楽死及び間接的安楽死については、それらが一定の要件を充たす場合には犯罪の成立が否定され得ることについてはほぼ異論がない。患者の死が差し迫っている場面においては、極めて例外的に、一定の条件の下で刑法による生命保護よりも本人の自己決定が優先され得ると考えられている。

(p. 233)

 

平成7年3月28日判決(東海大学安楽死事件判決)が、安楽死の一般的許容要件の1つでとして「患者について死が避けられず、かつ死期が迫っていること」をあげたうえで、その理由を、「苦痛の除去・緩和の利益と生命短縮の不利益との均衡からして、死が避けられず死期が切迫している状況ではじめて、苦痛を除去・緩和するための死をもたらす措置の許容性が問題となり得る」としている。いったん生命の保護の相対化を認めてしまうと、極端に言えば「価値のない生命」は保護しなくてよいという方向にも進みかねないため、慎重にならざるを得ないのである。

(p/ 239)

 

 現実問題として、患者の意思を明確に確認することができる場合にしか持続的深い鎮静を行えないとすることは、激しい苦痛に苛まれている患者を苦痛から解放することが(できるはずであるのに)できなくなる可能性がある、ということは筆者も理解している。推定的同意による持続的深い鎮静によって救われる患者は少なくないだろう。しかし、現行形法の解釈論としては、患者本人の意思が不明な場合に、その意思を推し量ることで生命短縮の可能性のある持続的深い鎮静を行うことは、なお許されないと考える。

(p. 245)

 

コラム ③鎮静の手引きと、法 稲葉一人

 

……例えば、自己決定権という言葉も、憲法13条等をもとに新しい人権の一つとして価値とすることで法学者間ではまとまっているが、これとて、憲法13条に「自己決定権」という文言があるわけではなく、「解釈」という操作によって導き出されており、どこまで自己決定という価値が尊重されるのかの外延は議論が尽きないのである(たとえば、後述の安楽死を求める医師の位置づけ)。……わが国では、法によって生命倫理的な問題に対処するという立法政策は採られず、患者権利法といった基本法や、苦痛緩和行為の根拠を示す法律もない。

(p. 247)

 

まとめ 13 苦痛緩和のための鎮静 論点は何か? 森田達也 田代志門

 

 そうすると、妥当な論の立て方の一案としては、時間~日の単位の鎮静については、生命予後を縮めないと主張することによって、患者は個人に見合った(実際に受けてみたらこれこれであれば鎮静は受けなかったと言わないくらいの)説明を行うことを原則として、患者に意思決定能力がない場合には、患者の意思の推定にはつとめ、推定もまったくできない場合には患者にとっての最善の利益(best interest)をチームで検討することで是とせざるをえない。これは、治療中止において厚生労働省の「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」と同じ立場であって、治療中止が死を確実にもたらす一方で、死亡直前期の鎮静は苦痛緩和という医療行為であって必然的に死をもたらすものではないということから、十分に是認できると思われる。

 対照的に、…… 生命予後を短縮する可能性がある場合の鎮静については、一家も市原と同じく「最善の利益」による正当化は困難だと指摘していることには注意しておきたい。

  ところで、推定医師や最善の利益においてはチームでの判断が求められるが、今井の「医療チームでの判断そのものが偏っている可能性がある」との指摘は重い。……「患者の身になって」検討してみた東森でも、自分たちの価値観に色濃く染まっている可能性を(鎮静する側もしない側も)意識化しようとする必要がある。

(p. 262)

 

 一方、患者体験から見るとどうなるだろうか。外科医とのやり取りのできる意識は深い鎮静と安楽死ではなくなることに相違ないが(これに価値を見出すかどうかは人それぞれであろうが)、内在化した意識は深い鎮静でも存在している可能性がある。また、しばしばいわれることとして、鎮静では死の時は自然に任されており、人間がコントロールしない点も安楽死と異なる。この「亡くなる時期が自然に任せられている点も倫理的に重要な点であろう。

(p. 267)

 

mori