森田達也 田代志門編著『鎮静と安楽死のグレーゾーンを問う 医学・看護学・生命倫理学・法学の視点』(中外医学社 2023) 1-5 森田・新城・今井

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……2000年代に世界各国で、「死亡直前の緩和できない苦痛に対して鎮静薬を最小量使用すること(palliative sedation)は妥当な医療行為である」とのガイドラインが作られた。しかしその後、もともとはガイドラインで想定していなかった、生命予後がまだ期待できそうな患者、治療抵抗性があいまいな精神的苦痛に対して使用されるようになっていることを示唆する知見が出され、さらに、フランスの持続的鎮静法という従来の、ほかに手段のない死亡直前の強い苦痛を和らげるlast resortとしての鎮静とは異なる鎮静が立法化された。これらの動きは医療者側がというよりも、患者側の苦痛緩和や自分の望むような最期を迎えたいという希望に押される形で展開している。その結果、狂う緩和のための鎮静と安楽死とのグレーゾーンが広がっており、国際的にも国内的にも、医学のみならず倫理学法学など学際的な議論が必要である状態といえる。

(p. 16 森田)

 

4 鎮静は患者の苦痛を緩和する最後の手段になるのか? (新城拓也)

 

最初に、新城自身の医師としての経験とありようの振り返り。

医師になってから内科医として病院で働いた1996年から2001年。

 

……病気は苦しいもので、苦しさというのは、原因が治療されない限りは当たり前のことという信念を経験から勉強していた。自分が病室を出てしまえば、患者の苦痛や、それを見守る家族の苦痛はないものと同じになった。たとえそこに患者の苦痛が存在しても、医師としての自分が関心をもたなけれければ、苦痛は存在しなくなる。私はそうやって、苦しむ患者に関心をもたないまま、自分の信念を補強していった。その時点での本質は、治療できない病気は「仕方ない」だ。私は苦痛の緩和は自分の仕事だと思えなかった。

(p. 51)

 

  患者が苦しんでいれば、そばにいる家族もその様子を長時間見ていれば、だんだん苦しくなる。だから患者の苦しみと家族の苦しみは、合わさり倍になる。やがて、鎮静は患者を苦痛から救い出すと同時に、家族を苦痛の場面から救い出すのが鎮静なのだと思うようになった。また情を持って患者、家族にある程度長い時間接していた看護師にとって、患者の死というケアの到達点が、混乱した意識で患者がベッドから落ち、何度もトイレに行きベッドに戻る、意味のない言葉を発する、眠れない夜を過ごし付き添う家族が披露する姿を見続けるのでは、あまりにも残酷だと思った。自分は、鎮静という治療で、すべての人を苦痛から救っていると思うと同時に、死の場面をきれいにしている、浄化しているとも思うようになった。

(p. 54)

 

死の臨床研究会(2000年 広島)の参加を機に、緩和ケア病棟で勤務を始めた2002年から2011年。

 

……当時の教授に、緩和ケアの道を進むため、医局を辞めると緊張しながら正直に伝えたところ、不機嫌な表情になり、「どうして敗戦処理をする専門になろうとするのか。患者の病気を治すのが医師の仕事だ」と言われた。

(p. 55)

 

ガイドラインには書かれていない鎮静の現実」(p. 58)

 鎮静薬、特にミダゾラムには耐性ができる。

 

 現場で私が苦労していたのは、鎮静が直接死に関与したと家族に思わせないことだ。鎮静を始めてから少なくとも数時間は生存するように慎重に投与量を調整した。鎮静の直後に患者が亡くなれば、地位生と死の因果関係がないと医師として主張することはできても、家族や看護師が、「鎮静のために死んだ、死ぬのが早くなった」とかくしんしてしまえば、事後どうすることもできない。

(p. 58)

 

 根本的に、鎮静の調節が難しい一番の理由は、すでに患者の全身状態が不安定になっているためだ。健康者を対象とした内視鏡検査の鎮静であれば、その投与方法は毎回同じで、調節の方法も確立している。しかし、緩和困難な苦痛がある患者は、循環動態も脳のレセプターの反応も健康者とは異なるのか、鎮静薬がまったく効かなかったり、効きすぎたり、効き目がなかなかあらわれなかったりした。なので、投与量を厳密に指示しても、投与される患者の個体差、全身状態によりその効果は事前には予測できないのだ。

(p. 60)

 

 また、鎮静は本当に患者の苦痛を軽減しているのだろうかと、根本的な疑問が今でもある。鎮静は患者の苦痛を緩和するためのものなのに、患者自身から、苦痛の緩和の程度を教えてもらうことができないのだ。

……

 また患者が評価できないなら、主介護者である家族が患者の苦しみを代理する方法を、普段の現場では確認しているだろう。難しい評価方法を知らなかったとしても家族が「苦しくなさそうに見える」なら、鎮静は十分と考えていることだろう。しかし、「患者は苦しくなさそうに見えているだけで、本当に患者は苦痛を体験していないのだろうか」という疑念が付きまとう。

…… なので、患者の主観を他人は、どのようにしてもわかることも測ることもできない。しかし、私たちは「どういう状態なら患者や家族が苦しんでないと言えるか」という核心する条件を詳細にすることはできる。

(p. 61)

 

 鎮静は、私が働いている間に緩和ケア病棟では標準的な治療となってきた。患者の10~20%くらいに、亡くなる3~4日までに必要となることが経験としてわかってきたのだ。しかし相変わらず現場での鎮静の開始に関しては、いつも医療者優位で、カンファレンスで「鎮静をするほかない」と決まってから、患者や家族に説明されることが常だった。……痛みや呼吸困難で苦しい最中に、「鎮静しますかどうしますか」と患者に尋ねるのはフェアじゃないと思った。苦痛に追い込まれていれば「すぐに鎮静してくれ。助けてくれ」と返答するのはわかっていたし、せん妄のように意識障害があり言葉のやり取りができない状態で、仕方なく家族と鎮静を決めるといった、以前のような本人不在の形だけのインフォームドコンセントに疑問を感じていた。

(p. 62)

 

クリニックを開業した2012年から現在

 現実的な困難:医師、看護師の訪問が1日1~2回程度では、鎮静の深度を調節することは困難。そのため在宅では家族でも投与できる座薬を用いるが、「家族が患者の死により加担していると思うようになる」ことに気づき、万一、直後に亡くなった場合に看護師や家族に傷を負わせないために、この方法はできるだけ避けるように。

 

12年以降、使える薬の種類は増え、がんの痛みに医療法麻薬を使う、増減する、他の薬に変える、副作用の対策をする、などは、どの医師も同じレベルになってきたが「苦痛緩和の限界をきちんと判断できる医師はほとんどいなかった」(p.64)

 

 また鎮静という治療を知っていても、……「使ったことがない薬をうまく使うことができない」という理由で、鎮静を避けていることがわかってきた。また基幹病院の緩和ケアチームの回診を手伝うようになって分かったのは、医師と患者と家族の信頼関係が構築されていないと、鎮静のように重大な決断を必要とする治療は始められないと言うことだ。

…… ほとんどの医師は、数回一緒に鎮静の場面を共有し、薬の使い方、患者と家族への説明の仕方、さらに周囲の医療者との討論の仕方を教えて、一度でも一緒に体験すれば、次は一人でできるようになっていった。

(p/ 64)

 

 その後、新城は鎮静という治療があることを広く世の中に知らしめるためにメディアに対して発言し始める。そして、患者から自分のネット上の記事を見せられて鎮静を提案される、という体験をする。

 

 今までのように先に医療者がカンファレンスで鎮静をすると決めてから、鎮静の説明をするのではなく、患者や家族も鎮静を予め知っていれば、自分から鎮静を求める機会を得ることは、よくよく考えれば当たり前のことなのだ。

 医療者は、鎮静の対象になる苦しみが、身体の苦痛なのか精神の苦痛なのか、実存的な苦痛なのかと分類を求める。身体の苦痛であれば鎮静を認め、それ以外では認めない傾向がある。しかし、鎮静が必要な患者は、本人にとっては苦しみの分類をされることに意味はないし、患者詩人が耐えがたい苦痛を訴えているのに、その耐えがたさを医療者が審査されることにも意味はない。……予測される苦痛をあらかじめ回避するのも緩和ケアの一つだと思うが、このような予防的な鎮静に、医療者が忌避感を感じるのはなぜだろうか。

(p. 66)

 

……鎮静は患者の苦痛を緩和する最後の手段になるのか。安楽死は治療方法と言えるのか。まだ議論の論点を定められないとしても、緩和ケアが失敗したときに安楽死を位置付けておかないと、患者の自殺に医師が加担するような現場に私はいられないと思った。恐らく、国内で積極的安楽死ができるようになると、緩和ケアの素養をもち、患者の苦痛を扱い、倫理的な論点で仕事ができる医療者ほど、「いい加減な安楽死をされるくらいなら、自分がきちんとやりたい」と思うかもしれない。責任感の強い意思が、十分な心理的な支援を受けられないまま、信念を曲げて心を痛めながら、安楽死に当たるようになるのだ。まだ国内でも緩和ケアが充分に受けられない現状では、安楽死と鎮静の限界を緩和ケアという言葉で明確に区別しておいた方がよいと思っている。

(p. 67)

 

 鎮静は患者のすべてには必要ないが、必要な患者には確実に実行されなくてはならない。その一番の理由は、残された家族や医療者には、患者の残した苦しみの記憶がいつまでも心の傷として残ってしまうからだ。最期の場面が、その後を生きる人たちに及ぼす影響は大きい。鎮静は患者のためなのか、家族のためなのかという問いを見たことがあるが、当然その両方だと私はこたえたい。さらには、そこに立ち会う医療者のためでもあるのだ。

(p.67)

 

……死を見つめて最期の日々を過ごすよりも、死を意識しないで過ごすことを大切にしている患者は多い。お喋りや世間話で家族や見舞いの客と臨終の人それぞれが、一時死を忘れることで、不安を沈静しているのである。病院の面会制限は、こういった薬を使わない心の鎮静の機会を失っている。

 また面会制限が行われている病室では、患者の苦痛を家族は代理評価できず、また家族のいない病室では、患者の苦痛はよほど大きいものでなければ、勤務交代が常の医療者に静観されることもあるだろう。また反対に、特にせん妄で興奮のある患者に対しては、鎮静が行われやすい状況にあるかもしれない。そのような鎮静は、身体拘束の一つである薬物拘束(ドラッグロック)だ。

(p. 69)

 

 ……終末期の苦痛緩和を目的とした鎮静は、まだ不完全な技術で、実行するうえで考えるべき様々な知識が医療者には不足している。人が最後まで息抜き成長するためには、苦しみが耐えがたいものにならないように、医師をはじめとするあらゆる医療者は、確実な治療技術の習得と思想の研鑽を続けなければならない。苦痛の絶望する患者を救うのは可能性だ。その可能性とはあなた自身のプロフェッショナルな能力に他ならない。常に備えよ。皆さんの前にはまた苦しむ患者が来る。

(p.69)

 

5 死亡直前期の臨床から考える鎮静と安楽死

 

新城と同じく、鎮静薬の調整の難しさについて書かれている。とりわけ、いったん深い鎮静状態になった後の判断。減量しないでいると、血中濃度が上がって「致死量の薬物投与」になりかねず、かといって鎮静レベルを浅くすることには、苦痛の再燃が懸念されて、踏み切りにくい、というようなことが書かれている。

 

 鎮静を実施した患者の家族(遺族)に対して行った調査では、鎮静後に患者の苦痛が十分に緩和されないと、家族の満足度が低下したり、精神的つらさにつながることが報告されている。この点から考えると、持続的深い鎮静のほうが調整型鎮静よりも、より迅速に確実な症状緩和が得られるという点で家族にとっては好ましい可能性がある。一方で、コミュニケーションがなるべく保たれることは、死亡直前期で多くの患者や家族にとって重要である。……医療者との関係性、看護師のケア、医師の治療、心残りのなさなどについては、持続的深い鎮静のほうが、調整型鎮静に比較してより良い評価であった。

(p. 88-9)

 

 どのような場合に鎮静を行うかは、患者の状況や希望にもよるが、医療者、特に医師がどのような信念や価値観を持っているかに依存しやすい。医師の独断ではなく医療チームの判断だとしても、医療チームにも偏りがあるため、その集団では偏りがより強化される可能性がある。

(p. 89)

 

 意図はあいまいであるため、意図に依存した鎮静では鎮静薬の「致死量となる薬物投与」と、積極的安楽死が区別できない。意図ではなく実際にどのように鎮静薬を投与したりモニタリングをしたかで、適切な鎮静が行われたことを裏付ける必要があり、そのためには鎮静薬の投与プロトコルを用いて鎮静を行うことが一つの方法として考えられる。

(p. 90)

 

 今井は、予防的な鎮静や死亡まで継続する持続的深い鎮静や、安楽死の代替えとしての鎮静には慎重。理由は、まず、それらの行為が医学的に正当か疑問。もう一つは、鎮静の適応解釈や安楽死の代替えとしての鎮静の位置づけが進むと、社会的法的に規制がかかり、必要な人に対しても鎮静が手控えられること、死亡直前期の苦痛に苦しむ患者に不利映画生じる恐れ。