浅田次郎『流人道中記 下』

 内蔵助の腕前などは知らないが、体格や所作から察するに、さほどの達者とは思えない。一方の伝八郎は僧形とは言え、筋骨たくましく眼光も炯々として、ひとたび刀を執ればいかにも遣い手と思える。よってこの際は、伝八郎が内蔵助を斬り、なおかつ僕が伝八郎を斬るという結末が、最もありそうな気がした。

 エイッ、ヤッ、と柄杓を振り回しながら、ふいに僕は「斬る」と「殺す」が同義であると知った。

 人の命を奪うことに変わりはあるまい。だが武士は決して「殺す」とは言わない。まるで「斬る」がどのような場合であれ正当な行為であるかのように。

 たぶん、武士だけが「斬る」ことを許されているのだろう。たとえば、押し込みが主人夫婦を殺したところで「斬った」とは言わないが、武士が夜更けにいわれなく人を殺せば「辻斬り」なのだ。

 伝八郎が内蔵助を殺し、僕が伝八郎を殺す。そんな言い方は武士道にそぐわないが、「殺す」を「斬る」に言い変えたとたんたちまち、武士の道徳に適う、勇ましくも正しい行いのように思えてしまう。

 もしや僕らのうちには、殺人を勲(いさお)しとする野蛮な気風がいまだ生きていて、武士道なるものの正体はそれなのではあるまいか。そう考えれば、やれ仇討だの助太刀だのと殺人を重ねる僕らよりも、銭金目当てに商家に押し入り、口封じに殺人を働く盗ッ人どものほうが、まだましな人間に思えてきた。

(p. 76-77)