『いのちを選ばないで』メモ

『いのちを選ばないで―やまゆり園事件が問う優生思想と人権』(大月書店 2019)

 

第2章 事件の背景と要因――日本の社会保障社会福祉と人権保障の貧困

4.障がいのある人と家族の人権保障の現状と課題

                     矢嶋理絵(首都大学東京人文社会学部教授)

 

  はじめに――知的障がいのある人と家族の人権

 

 津久井やまゆり園事件を契機として、様々な人々の人権のありようが問われている。そのうち社会福祉労働者の労働・生活圏保障について検討したのが前章の鈴木論文である。続く本稿では、障がいのある人の中でもとくに人権侵害状況が深刻な知的障害のある人と、ケアの社会化の遅れゆえに負担を強いられている家族に焦点をあて、彼らの人権保障をめぐる問題の所在を明らかにし、問題解決の糸口をつかみたい。

(p.115)

 

(1)「知的障害者

省略

 

(2)家族

 福祉法関連条文を整理すると、「費用徴収対象者」としての扶養義務者(知的障害者福祉法27条、児童福祉法56条、精神保健福祉法31条)、「保護義務遂行者」としての保護者(精神保健福祉法)は従来からあるが、法文上「家族への支援」を明記したのは2004年の発達障害者支援法(13条)が初である。その後、2011年障害者虐待防止法は養護者の支援を、また2011年改正障害者基本法(23条)は家族に対する相談・支援等を規定した。しかし、発達障害者支援法は理念法にとどまる。また、障害者虐待防止法における養護者支援は、被虐待者である「障害者の権利利益の養護に資する」(一条)ためにおこなわれる「達成手段にすぎ」ず、擁護者の権利利益の擁護自体は目的としていない。さらに障害者基本法も、家族の権利保障を明示的に目的としていない。だが、国際人権規約A規約一〇条1項は、締約国は「できる限り広範な保護及び援助」を家族に保証すべきことを定め、また憲法二四条は、家族に関する法律は「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない」と定めている。たとえば介護者支援について定めるイギリスのCare Actのように、介護者自身の権利を保障する必要がある。

(p.117)

 

2.津久井やまゆり園事件が問いかけるもの

(1)なぜ施設なのか

①本人以外による施設選択

省略

②施設選択理由

 なぜ家族は施設を選ぶのか。先行研究は、「『成人期』というモデル・ストーリーの不在」や施設福祉サービスへの安心をはじめとする「移行の取り組みに愛する否定的態度」を理由に挙げている。やまゆり園(以下「園」という)利用者家族の「園は家族にとっては苦労の末、やっとたどりついた場所であり、本人にとってかけがえのない暮らしの場、家である」(第八回津久井やまゆり園再生基本構想策定部会、二〇一七年五月二九日)という発言の背景には、支援を得られず孤立し、介護負担の限界を超えた末に、苦悩しつつ、安心できる場として施設を選択した家族の切実な実態がある。「親の……思いや行動もまた、社会モデルで捉えてもらうことはできないでしょうか。『親が一番の敵にならざるを得ない社会』に共に目を向けてもらうことはできないでしょうか」という問いかけは重い。

(p.118)

 

(2)入所施設の構造的問題とは何か

……「永遠の子ども」として知的障がいのある人を位置づけ、「保護」に偏重したわが国の入所施設拡大路線政策があったといえよう。

 

(3)地域生活のために何が必要か。

省略

  • 選択肢の確保

省略

  • 情報保証

省略

  • 意思決定支援

省略

 

 知的障がいのある人も家族も、自らの生を生きる権利主体たることを実質的に保証するために、法はいかにあるべきか、今後さらに考察を深めていきたい。

(p.121)

 

 

第3章 事件を受けとめ、どのような社会を目指すのか

2 人権をかかげよう――人間として生きる

                          井上英夫(金沢大学名誉教授)

  • 施設を「人権の砦」に、職員を「人権のにない手」に

 ……ことの重大さに比べ、まだまだ福祉現場、家族、地域住民、行政からの議論が少ない。とりわけ、法学界も含めて人権保障の視点からの発言は極めて少ないと言わざるをえない。……事件が人権のにない手たる職員により、人権保障の砦であるべき福祉施設で起こされた、生命権という基本的人権の侵害・剥奪事件であることを直視し、正面から「人権・法的問題」として立ち向かう姿勢は不十分である。

 さらに、人権保障の責任は国(以下、自治体を含む)にあるという認識も、国や自治体自体に甘く、とりわけ社会保障社会福祉領域での「自助・共助・公助」論と営利化路線により、この国の無責任体制は進む一方である。被害者、家族、住民、国民からの責任追及の声も依然として弱い。しかし、嘆いているばかりではなく、人類の「人権のためのたたかい」(憲法97条)とりわけ日本ではハンセン病患者・回復者、そして家族のたたかいに学び、人権保障確立の道を進むしかないと思う。

(p.161-2)

 

  • 植松氏の「考え」と人物像

(1)「考え・理屈」――優生思想・優生学「もどき」

 植松氏の発言記録や私自身の面会経験から、彼の「考え」は思いつきであり、拘置所に差し入れされた書物等により自己正当化のために後付けされたもので、学問や思想というにはほど遠いと言わざるをえない。

(p.162)

    (2)人物像――キレる・褒められたい

   私との面会時、彼は突然、机を叩き、席を立ち「帰る。もう絶対会わない」と叫び、拘置所職員に押しとどめられる場面があった。

「障害者は無駄に税金を使い、財政赤字をもたらしていると言う植松氏の主張に取り合わなかったから」というのが、植松氏に私を紹介し、面会にも同席した月刊『創』の篠田博之編集長の分析であるが、私自身は私の二つの質問が彼の怒りを買い、キレさせたと思っている。ひとつは「人権について勉強したか。その歴史をしっかり学んでください」ということであり、もうひとつは「学校や家庭で褒められたことはあるか」という質問である。

 彼は褒められたい、そのために目立ちたい、そのようなタイプの人間なのではと思う。……マスコミ取材や面会者の訪問もまた、彼の自己顕示欲を満足させる機会なのだと思う。植松氏がなぜこのように育ち、一線を超えてしまったかを解明する上では彼の成育歴が問題であるが、本人が家族のこと、教育の場でのできごと等を話すことをかたくなに拒んでいるので、闇に包まれたままである。今後の裁判で解明されなければならない最大の点である。

(p.164)

 

    (3)人間観――「心失者2」は人間ではない

 彼も世界人権宣言が「人権を保障している」ということは知っているという。しかし、人権が保障されるのは「人間」である限りである。知的障害者は人間ではなく「心失者」である、「心失者」は税金を無駄に使い家族、人類を不幸にする、したがって、人間でない心失者は安楽死させるべきだ、安楽死されない「奴」は殺すべきだ――というのが彼の主張である。

(p.164)

     (4)労働観――見守りと抑圧

 彼は津久井やまゆり園で三年間勤務することによって、このような「考え」に至ったという。やまゆり園には「仕事も楽だし、良い職場だと思って」入ったという。実際の仕事も大変ではなく、「労働条件や待遇に対する不満はまったくなかった」「仕事は見守りで、見ているだけ。暴れたときは押さえつけるだけでした。彼らを見ているうちに、生きている意味があるのかと思うようになった」という。……

(p.165)

 実際に生活寮を訪問してみて、植松氏の言動が裏付けられたと感じた。やまゆり園では拘束・虐待が行われていたことが、彼自身の言葉と、その後の報道等で明らかにされている。このことは、やまゆり園のケアの水準がとくに低いということではなく、日本の社会保障社会福祉の水準が低すぎる、貧困であることを裏付けている。突き詰めれば職員配置の少なさ、質の低さに根本原因があるが、事件を理解する重要な点であると思う。

 こんなに安易で幼稚な考えで殺されたのではたまったものではない、というのが正直な感想である。……

(p.166)

 

  • 本人の人権、家族の人権、働くものの人権、地域住民の人権
  • 障害のある人・固有のニーズのある人の人権保障

 ……自己決定のための選択肢――施設か自宅か、別の家か――が保障されなければならない。……

  • 家族の人権保障――親亡き後の「公助」でよいか

 障害のある子をもつ親から出る言葉は、「親亡き後」への心配である。これは日本の社会保障社会福祉の現実が、家族、とりわけ親(高齢者の場合は子どもであるが)にケアの負担を強要し、自らの人生を犠牲にするよう強い、共倒れや介護・病苦殺人を引き起こすような水準であるからにほかならない。親や兄弟姉妹等、親族が存命中も、障害のある本人、家族の構成員のいずれもが、それぞれ独立した人生を歩めなければならない(もちろん、真の意味での自己決定に基づいて、親族の介護・ケアのための人生を選択することまで否定するものではないが)。

 中略 スウェーデンの「出会いの家」に言及。(家族一人ひとりの人権保障にまで高められた「家族支援策」)

 やまゆり園事件では、被害者の名前が公表されないという問題が発生した。施設に入るということは、家族や社会から隔離され、名前を消され存在を抹消される可能性があるということでもある。しかし、このことは同時に、障害のある人の存在を理由に家族が差別され、人権としての家族が侵害・略奪されていることを意味する。

 中略(ハンセン病家族訴訟、優生保護法裁判で、子どもを産み育てる権利、家族を構成する権利がクローズアップされていることなど)(ここまでp. 169)

 日本では、先のように家族が介護や扶養の義務を強調・強制され、世界にもめずらしい介護・病苦殺人などを引き起こしているが、本来、どのように、そしてどのような家族を形成するかは個々人の自己決定が保障される人権である。憲法13条、24条、そして25条の家族関係形成の権利は、国際条約によりさらに具体化されている。注意しなければならないのは、家族が誰かのために犠牲になるのではなく、一人ひとりの構成員が自己決定に基づき、自分の人生を生きることができるよう、国が「できる限り広範な保護及び援助」(1966年国際人権規約A規約第十条1項)を保証するということである。

(p.170)

 

  • 人権保障における国・政府の責任

 内閣府は、やまゆり園事件を受けて談話を出している。「内閣府としても、すべての国民が障害の有無にかかわらず、互いに人格と個性を尊重し合い、支え合いながら未来を築いていく『共生社会』、『一億総活躍社会』の実現に向けて、広報啓発など具体的な取り組みを行ってまいります」と。

 この談話は、結局は、互いに人格と個性を尊重し合えと国民に責任を押し付けるものである。しかし、国そして自治体には人権「尊重」ではなく人権「保障」の義務があり、その義務を果たさなければ責任を負わなければならない。……

 問われるべき国の責任は大きく二つである。ひとつは事件の根幹をなす優生思想・優生学的考え、劣等処遇という偏見、そしてそれに基づく殺害という差別を「作出・助長」したことへの責任である。第二に、生命権剥奪の要因となっている、社会保障社会福祉政策の貧困、とりわけ低水準の施設ケアを生み出し放置していることの責任である。

(p. 172 以後、この2点について詳述)