宮坂道夫『対話と承認のケア ナラティブが生み出す世界』

……傾聴ができていると見なせるのは、自分と意見が違っても冷静に相手の話を聞くことができる、言葉には表現されていない相手の気持ちにも注意しながら聞いている、相手の立場になって話を聞いている、話を聞いているときの自分の気持ちに気づいている、相手が言いよどんでいるときには「たとえば、こんなことですか?」ときっかけをつくる、相手が話したポイントを頭の中で要約しながら聞いている、といったものである。

 逆に、望ましくない態度とは、相手の話が終わらないうちに話し始める、指示・説得調の話し方になる、自分のほうが長く話している、自分の機嫌が悪いと攻撃的な言動になる、相手と議論になったり自分の意見を押し通してしまったりする、自分の考えと異なる意見を否定しがちだといったものである。

(p. 134-5)

 

  • リタ・シャロン:個別的な存在として患者を見よ、と主張。すべてのケア者は「物語能力 narrative competence」「病の物語を認識し、吸収し、解釈し、それに心動かされて行動するために必要な能力」を持つべきだと説いた。

 彼女(児玉注:シャロン)は、長年にわたって診察してきた患者から、あるとき突然に身の上話を聞かされた。その人は89歳のアフリカ系の女性で、高血圧、乳癌、脊柱管狭窄、および不眠と不安に苦しんでいた。そうした長年の不調の発端になったのが、子どものころの落馬事故だという話をこれまで何度か聞かされてきた。ところが、二十年以上も診察をしてきたある日、本当に経験したのは落馬事故ではなく、近隣の白人少年からのレイプだったと語ったのだった。

(p. 136)

 

  • ケアをめぐる状況には、複数の人の物語があり、それらが対立している場合がある、という事例として、著者が例示したのは、おおむね以下のような創作上の看護師の物語(p. 165-6)。

 80代の慢性的に肺機能が低下した男性患者。肺炎を起こしたため、医師は一時的に人工呼吸器を使うことを決めて家族に説明。ただし、改善して離脱できるかどうかは不透明。本人は呼吸器をつけたくないと言っていたとして妻はためらうが、医師が強く説得したため、つける場合には精神的ケアをと頼み、代諾書にサイン。意識を回復した本人は、怒り、妻は苦しんだ。結局、離脱もできないまま、妻が望んだ「精神的ケア」は結局は睡眠薬のみで、本人は死なせてほしいと訴え続け、しかし医師は呼吸器は外せないと考えている。

著者はそれぞれの立場の物語が対立しているので、ケア者は対話による複数のナラティブの調整が必要だとしている。が、これは医師の強引な意思決定プロセスの進め方に問題があるのでは?

 

  • 本書の議論の柱として繰り返されるのは、「実在論」vs「構築論」というケアの姿勢の対比。

 

 ……物事を〈人間の認識とは独立して存在する〉とする実在論と、〈人々の認識によって社会的に構築されている〉と見なす構築論とがあり、両者はまったく違った対話のモデルを描かせる。

(p. 170)

 

 効果の検証の課題はともかくとして、少なくともリフレクティング・チームとオープン・ダイアローグのように、完全に構築論的な実践例からは、ナラティブ・アプローチがケアになるための、もう一つの仮説が立てられそうである。すなわち、〈ケア者のみが正解を知っているという前提を放棄して、ケア者と被ケア者とが自由に発言できる対話空間の実現が、心のケアになる〉ということである。

(p. 204)

 

 リフレクティング・チームやオープン・ダイアローグがきわめて革新的であるのは、〈ケアする私〉と〈ケアされる私〉の関係を、ピンで留められていたかのような図式から解き放つ点にある。〈ケアする私〉だけが保持してきた、専門家として「正解」を述べる特権が棚上げにされ、ケアの「正解」は、そこで行われる対話によってのみ導き出され得るもので、それを事前に知っているものは誰もいないという前提が共有される。

(p.247)

 

  • 著者が最後に「弱さの共有」という小見出しで書いていることは、ちょっとなぁ……。

 近未来に健康管理を担うロボットが出現し、傾聴までしてくれるという想定で、我々はロボットに話を聞いてもらってよかったと思えるか、という問いに対して、我々は死ぬ存在である者同士だからこそ傾聴によってケアが可能なのだとすれば、やがて必ず壊れる宿命を背負ったロボットであれば、「親近感を感じて」話を聞いてもらいたいと思うのではないか、という仮説を立てて、それを「弱さの仮説」と自称しているんだけれど、いくらなんでも、これはないんじゃない? 最後にものすごく安直なところに落とされて、終わられた感じ。