阿古真理『昭和育ちのおいしい記憶』

 味覚は家庭でも育てられるが、外食でも鍛えられる。逆に勤め人の場合、ふだん食べている外食の味が、その人の舌を決めると言えるかもしれない。

 おふくろの味や、亡くなった妻の味が恋しくなるのは、それが自分にとって大切な思い出とともにあるからだ。味覚は変わっていく。つくり手も変わっていく。毎日料理をするうちに、妻が腕を上げておふくろの味を超える。それでもおふくろの味のほうがいいと夫が言うなら、夫婦関係自体を見直したほうがいいのではないだろうか。

 女性の場合、母の味には敵わない、と言っている間は、まだ母を超えたくないのかもしれない。人生の先輩として、尊敬し続けられる豊かさと強さを持った母を、その人は持っているのかもしれない。あるいは、偉大というイメージを子指すのを恐れているのかもしれない。

 味覚は、時代の変化の中で変わるが、つくり手との関係でも変わる。自分の味を「おいしい」と心から思えたとき、人は自立への一歩を踏み出すのだろう。

(p. 152-3)

 

 このころ、日曜日の朝に放送されるテレビ番組で『アルプスの少女ハイジ』を観ていた子どもたちが憧れたのが、ハイジがおじいさんと食べる山羊のチーズである。

 おじいさんが黒パンを切る。穴の開いた丸いチーズを切り取って、鍋のかかった火にかざしてトロリとなったところで、パンに載せる。渡されたハイジは大喜びで口にほおばり、赤いほっぺたをますます赤くして、おじいさんと幸せそうに微笑み合うのだ。パンとチーズとスープしかない食卓が、とても豊かなものに見えた。

(p.202)

 

私はテレビは見なかったけど、本で読んだ時に、やっぱり山羊のチーズが鮮烈に「おいしそう」なイメージだった。スープがあった覚えも、チーズを火にかざして云々という覚えもなくて、ただナイフで切っただけの黒パンとチーズ。それだけの食事が、めちゃくちゃ豊かでおいしいものに思えた。それから、もう一つ、憧れをもって頭に描いたのが「乾草のベッド」だった。