宮下洋一『安楽死を遂げた日本人』(小学館)

第3章 幸運を祈ります

 

関東在住の著者と同世代の男性吉田淳(仮名)さんとのやりとり

 

「実際、今でも医師から、緩和ケア病棟に申請してください、と言われているんです。申請もしているんですけど、待機組がたくさんいるみたいで」

 吉田の言いたいことは分かった。それでも「あくまでイメージ」で、緩和ケアを語っていることが気になっていた。

 緩和ケアによって肉体だけでなく、精神的な苦痛も取り除くことことができることを、日本人は知らないと思う。もちろん、それは100%ではないだろうが、最期を穏やかに迎えるための手段として欧米では定着している。

 安楽死を希望する日本人は、緩和ケアとは痛みをごまかしつつ病と闘うものというイメージを抱いているようだ。一方、彼らは安楽死について、安らかに眠れるものと認識している。そこに私は疑問を抱くが、ここでは触れない。ちなみに緩和ケアの技術が進むイギリスは、安楽死が法制化されている国々を緩和ケア後進国と見做している。

 ここで吉田の知識不足を指摘することは簡単だった。だが、問題はより根深いことに私は気づいていた。彼の関心は、「苦しまずに死にたい」ではなく、「苦しむ前に死にたい」という方向に向いている。……

(p.104)

 

 はっきりとは吉田に伝えていないが、家族に告げることができない患者に、安楽死は勧められないというのが私の立場だ。

 海外では、医師側が安楽死を行う際、最もトラブルになるのが、事前に家族の了解を得ていなかったケースである。個人の意思を尊重する国であっても、家族の意思を無視してよいわけではない。家族の理解を得ているからこそ、患者も安心して旅立てるのだ。

(p.110)

 

 小島は今、安楽死という選択肢を選ぼうとしている。たとえそれが叶わないとしても、NHKの笠井にとっては密着取材をすべき相手に映ったようだ。その点は私も同じである。

 この頃から、小島、笠井、私の3人は様々な方法で連絡を取り合うようになった。とはいっても、患者の願いを叶えるためではない。小島を取材する側としての立場をわきまえていた。私の場合、すでに日本を離れていることから、直接、彼女への取材はできない。笠井からの連絡を受け、小島の動静を確認していた。

……

 

 実はこの時期、私はNHK-BSの番組を請け負う別のテレビ制作会社からも、ライフサークル取材のコーディネーターを頼まれていた。

 BSで放送されるという、この番組の意図は、安楽死に携わる医師プライシックのもとを訪ね、国内外の患者がどのような思いから死に至ろうとするのかをレポートすることだった。

……

 11月12日から6日間の予定で、プライシックに取材日程を取ってもらった。

 並行して、私は笠井の番組に向けてもプライシックと相談を重ねていた。こちらも同じく、安楽死という行為よりも、そこに向けた小島の思考の変遷をたどるはずだった。一方、私が小島と直接やり取りしていなかった3週間、彼女はライフサークルと何度も連絡を取っていたようだった。その詳細は分からない。

 そして、事態は思わぬ方向に進み始めていた。

 

4.

 事が動き出したのは、11月8日だった。プライシックがメールで、小島と交わした通信内容を私に送ってきた。

 

 メールの翻訳を引用(3月まで空きがなくできないので、他の機関をあたれ、という内容)

 

……

「3月まで空きがない」というが、これは3月になったら自殺幇助が可能だということを意味していない。あくまで「3月以降に検討しましょう」ということで、まだ小島の案件に対して団体の審査すら行われていないのは言うまでもない。

……

 (spitzibara注:小島さんはプライシックに返事を送ると同時に宮下さんに相談のメールを送る)

……

 私は小島にどう連絡しようかと考えていたら、再びプライシックから小島に宛てたメールがBCCで送られてきた。つまりプライシックが小島に宛てたメールは、私にも情報共有されていた。

 

 次の提案を検討していただけますか。

 緊急であるのなら、ヨウイチ・ミヤシタが取材に訪れる来週の木曜日(11月15日)に来ることは可能でしょうか。その際に、われわれのメディカル・チェックの面談と自殺幇助の一部を、彼に取材させてもよろしいですか。となれば、11月13日の午後、スイスにいることはできますか。まだあなたのレポートがありません。もうメディカル・レポートとパーソナル・レターは送りましたか。出生書類は、後で手渡しでお願いすることになります。もう一つの候補は、12月1日ですが、こちらは可能性が低いかもしれません。

 

 驚いた。そして混乱した。13日とは、わずか5日後のことだった。プライシックはパーソナル・レターを送れと言っている。小島のカルテなどの正式な審査もしていないというコトだ。それなのに、なぜこれほど早く事が進んでいるのか。

 プライシックのメールには私の名前が記されていた。私の取材のために自殺幇助日が設定された、と読める。だとすると、小島の死期を早めているのは、私と言うジャーナリストになってしまう。

 何よりプライシックは誤解している。私が、長友との取材でお願いした内容は、小島のドキュメンタリーでも、そもそも自殺ほう助の現場取材でもない。スイスにやってくる諸外国の患者の葛藤を撮影するというものだった。

 彼女は、長友の番組と笠井の番組をごちゃ混ぜにしてしまっているのではないか。その混乱を予想できても、われわれの取材のために小島の自殺幇助を一週間後には辞めるなんて無茶苦茶だ。

 さっそく笠井に連絡すると、彼もまた動揺し、声を震わせた。

……

 小島が返信したと思われるメールに対し、プライシックは11月10日に返信している。この辺りのメールは、すべてBCCで私も受け取っていた。

 

 ミナさん、12月1日土曜日はダメですが、11月28日木曜日は大丈夫です。ですので、11月26日火曜日の夕方にはバーゼルにいてください。

 それでよろしいですか。われわれの唯一の可能性です。

 

 今度は小島からプライシックへのメール(11月12日)。

 

 お返事ありがとうございます。私の急なお願いに応えてくださり、感謝しています。バーゼルに26日に入り、28日に安楽死の施行をしていただくことは可能です。何度もやり取りしていただき、ありがとうございます。それでは、28日に私は死ぬことができますね。ありがとうございます。

(P.162-170)

 

(spitzibara注:小島さんの自殺幇助後、指示されたとおりに両替できなかった日本円の現金を持参した姉の恵子さんから封筒を受け取って数え始めたプライシックは、途中で数えるのをやめ、数十枚を恵子さんに返した)

 

「これで十分よ。ここに来るまでに、皆さんすごくお金がかかったでしょう。スイスはとても物価が高い国ですから、その分は、持ち帰ってください」

 果たして、これは認められる行為なのか。寛大な心を持つプライシックらしい対応だと思えたが、果たしてこうした義侠心を、死を扱う現場で見せていいのかは疑問に思った。

 国の、そして団体のルールが曖昧だとも感じた。ともかく、最初から最後まで、今回の自殺幇助はすべてが曖昧だった。私も初めて目にする光景だった。

 もしかしてプライシックは、今回の出来事が日本人初という理由もあり、団体の収益を度外視してでも「意味のある自殺幇助」と捉えたのか。その意味とは一体何だろう。

「もう時間がないので、私は失礼するわ。みなさんお元気で」

 そう言って、プライシックはいつも同様、風のように去っていった。

(p.254-5)