上野千鶴子『女ぎらい ニッポンのミソジニー』(朝日文庫)

……ミソジニーは男女にとって非対称に働く。男にとっては「女性蔑視」、女にとっては「自己嫌悪」。もっと卑近な言い方で言い換えよう。これまでの一生で男のうちで、「女でなくてよかった」と胸をなでおろさなかった者はいるだろうか。女のうちで、「女に生まれてソンをした」と一度でも思わなかった者はいるだろうか。

(p. 12)

 

  男にとって女の最大の役割は、自尊心のお守り役である。どんな女にもモテる秘訣がある。それは男のプライドをけっして傷つけず、何度もくりかえし聞かされる自慢話にも飽きずに耳を傾け、斜め45度下から見上げるようにして、「すごいわね、あなた」と子守歌のようにささやき続けることだ。(P. 73)

 

……結婚以外の社会的達成の回路が女性にもひらかれるようになると、娘も母の期待から逃れることはむずかしくなった。娘たちは「女の顔をした息子」となり、娘と息子に対する期待のジェンダー差は縮小した。わたしはこれを少子化の効果を見なしている。なんであれ、ジェンダー差が縮まることは、歓迎される事態だろうか?

 だが、母親の娘に対する期待は、息子に対する期待とは違う両義性を持っている。彼女たちは、娘に対しては、二重のメッセージ、「息子として成功せよ」と、「娘(=)として成功せよ」を送っている。どちらも場合も、「わたしのようにならずに」という自己犠牲のメッセージを送りながら、しかも「わたしをこうしたのは、おまえだよ」という隠れた譴責をともなって。

 こうしたダブルバインドなメッセージを受け取った娘は、「股裂き」状態にならざるを得ない。……

(p. 150)

 

 人は「女になる」ときに、「女」というカテゴリーが背負った歴史的なミソジニーのすべてをいったんは引き受ける。そのカテゴリーが与える指定席に安住すれば、「女」が誕生する。だが、フェミニストとはその「指定席」に違和感を感じる者、ミソジニーへの「適応」をしなかった者たちのことだ。だから、ミソジニーから出発しなかったフェミニストはいない。フェミニストであるとは、このミソジニーとの葛藤を意味する。

(p. 155)

 

 だが、女が女に与える価値は、男が女に与える価値に対して、二次的な値打ちしかない。酒井が結婚していない女を「負け犬」と呼ぶことにも、この認識が背後にある。つまり女には、女が自分の力で獲得した価値と、他人(つまり男)が与えてくれる価値のふたつがあり、前者より後者のほうが値打ちが高いと思われているからこそ、結婚していない女は「負け犬」と呼ばれる。なぜなら結婚とは、女が男によってえらばれたことの登録証だからだ。

(p.203)

 

  学歴偏差値と女性生偏差値と女ウケ偏差値との関係は、ねじれている。女だけの世界は、これら複数の尺度によって分断されている。だからこそ、一元的な価値尺度だけで測れるようなホモソーシャルな集団を、女だけの世界は男のようにはつくらないし、つくれないのだ。

(p. 206)

 

「おキレイですね」と言われると、中村はこう返すことにしているという。

「ええ、整形ですから」

 そう言われれば、たいがいの相手は引く。自分の顔をいじりまわしたあげく、整形から得たものは、自分の顔に責任を持たなくてもよくなったことだ、と言う。卓見だと思う。要望の美醜が自分に属さないこと、女というジェンダーが「女装」によって成り立っていることを、ドラァグ・クィーンと同じく、中村はパフォーマティブに示すのだ。これがネタでなくて、なんであろうか。

(p. 208)

 

 多くの論者が現代の女の引き裂かれ方についてさまざまな表現で語っていることは、つまるところ、上記の二つの欲望に尽きる。均等法以降の女は、個人としての達成と女としての達成、このふたつを両方とも充足しなければ、けっして一人前とは見なされないのだ。

(p. 229)

 

「かわいくない女は女ではない」「ブスは女ではない」「おっぱいのない女は女ではない」「あがった女は女ではない」……限りなくつづくこの等式になにを代入しようが、それは一つの簡潔な命題、「男の欲望を刺激しない女は女ではない」に還元される。別な言い方をすれば、「女の存在価値は、男の性的欲望の対象となるところにある」という単純な命題になる。

(p. 244)

 

 ミソジニーについては、それを超える道筋がふたつある。ひとつは女が越える道筋、もうひとつは男が越える道筋である。

 前者について、よくある誤解を解いておこう。それは「フェミニストは女ぎらいだ」という説である。これについては「そのとおり」と肯っておけばよい。否定する理由は何もない。理由の第一は、このミソジニーの社会で生まれ育ってミソジニーを身につけていない女はまずいないからであり、理由の第二は、フェミニストとは、みずからのミソジニーを自覚してそれと闘おうとしている者のことだからである。もしミソジニーから完全に自由な女がいたら(そんな女がいるとして、のことだが)、その女性は闘う対象を持たないのだから、フェミニストである理由もない。……そもそも何がミソジニーかは、それが何であるかをあらかじめ知っているひとによってしか判定されないものだ。多くの女は、ミソジニーとは何かを知っているからこそ、それに対して怒りと苦痛を覚えてきたのだ。

(p. 295)

 

 男にも自己嫌悪はある。そのとおりだろう。だがそれにも二種類の自己嫌悪がある。ひとつは自分が男であることへの。もうひとつは自分がじゅうぶんに男でないことへの。森岡の議論では、このふたつの自己嫌悪が区別されているとは言いがたい。このふたつの自己嫌悪は似て非なるものである。というのも、このふたつの自己嫌悪は無効方向が全く逆だからだ。

 男性学は、ジェンダーの呪縛に男もまた苦しんできたことを指摘するが、それは後者、男が「じゅうぶんに男でない」ことへの苦しみではなかったろうか。

(p. 297)

 

 フェミニズムは女にとって自分自身と和解する道だった。男にとっても自分自身と和解する道がないわけではなかろう。それは女性と同じく、「自己嫌悪」と闘うことのはずだ。そしてその道筋を示すのは、もはや女の役割ではない。

(p. 302)

 

 心理学者の小倉千加子は『セクシュアリティの心理学』[2001]のなかで、思春期に卓抜な定義を与えている。女の子にとって思春期とは、年齢にかかわらず、自分の身体が男の性的欲望の対象になると自覚した時に始まる、と。

 男に性的に欲望されても女は傷つく。欲望されなくても傷つく。それ以前に、女を性的欲望の客体(モノ)としてまなざす男の視線がはりめぐらされた磁場があり、そのなかで「オレをそそる女」と「そそらない女」とのあいだに、分断が持ちこまれる。誰かを見て「いい女だな」と男が一言いうだけで、いやおうもなく女の序列の中に自分も組み入れられる。だれにどんな価値を与えるかは男の手のなかにあり、その評価に女はふりまわされる。

(p. 340)

 

……ある日、歌謡曲を聴いていたらこんな歌詞が耳に届いた。「♪ちょっとお人よしがいい」「♪くどかれ上手な方がいい」……翻訳しよう、「ばかで扱いやすい女がいい」「パンツ脱ぐのに、オレサマにテマかけさせんな」。分かりやすさに卒倒しそうになる。裏返せば、この程度のちょろい男ならかんたんにコスプレで騙すことができるということでもある。女を侮蔑する男に対する徹底的な侮蔑が、連続男性不審死事件の被告、木嶋佳苗にも、後妻業連続殺人事件の被告、筧千佐子にも、分けもたれていたはずだ。

(p. 342)

 

 彼女(注:田房永子)にならってわたしも若い女たちに言いたい。はした金のためにパンツを脱ぐな。好きでもない男の前で股を拡げるな。男にちやほやされて、人前でハダカにになるな。人前でハダカになったくらいで人生が変わると、カンチガイするな。男の評価を求めて、人前でセックスするな。手前勝手な男の欲望の対象になったことに舞い上がるな。男が与える承認に依存して生きるな。男の鈍感さに笑顔で応えるな。じぶんの感情にふたをするな。そして……じぶんをこれ以上おとしめるな。

(p。352-3)

 

解説「自分を嫌いになる前に」 中島京子

 

 思えば小学校の教室で、何か理不尽なことに抵抗すべく、立ち上がって意見を述べようとするわたしに対して、何度、「女のくせに黙ってろ」

という言葉が飛んできたものだったか。その制止を振り切ってさらに何か言おうとすると「ブス!」という決定的な評価が下されたものでした。「ブス!」というのは、なにかこう、それを言われたらもうおしまい、退場、のニュアンスが込められていて、口にしている男子にしてみれば、「女のくせに黙っていることもできないおまえなんか、もう女ですらない。女以下。ブス。無用。価値なし。退場」という意味だったのだろうと思われる。しかし、小学校5年生のわたしは勝気で、「ブス!」と言われたくらいで黙ろうとはしなかったため、「ブース! ブース! ブース! ブース! ブース! ブース! ブース!」と、何回だったか忘れたけれども、わたしの発言を一言たりとも効かないという態度を示す数だけの「ブス!」が放たれた日のことを、本書を読んで忘却の彼方から思い出してしまった。かわいそうすぎる、五年生の自分。あんた、あの日、「ニッポンのミソジニー」の犠牲になったんだよ。

…… 自分の経験のいろいろな場面が、本書によってハラリと読み解かれる感覚は、ある種の快感も伴う。

(p。384-5)