三浦まり 岩波新書『さらば、男性政治』

 ジェンダー平等に適当的な男性性として、EUなどではケアする男性性(caring masculinity)が盛んに提唱されている。伊藤はこれを「男性のケア力」と呼び、男性がケアする、つまり他者の生命や身体、気持ちに配慮する力を身につけると同時に、自分が大変な時には助けを求め、ケアを受容する力も涵養する必要があると述べる。あるいは杉田俊介はラディカル・メンズリブの可能性として、男たちが、「ありのままの、ありふれた「男」としての自分のことをまっすぐ愛せる」ようになること、つまりは「自らの加害性を容赦なく認識し、「男」らしさの鎧をunlearn(学び捨て:著者注)し、その痛みにおいて社会変革を目指すこと」を呼びかける。男性学においてこうした新しい男性性の提起が行われると同時に、前述のようにバックラッシュに加担する男性権利運動も勢いを増している。男性性規範をめぐる論争や運動の行方は女性の政治参画にも大きな影響を及ぼすものである。

(p. 190)

 

 現在、様々な政治的主体性を持つ当事者が声を上げるようになった。それは多様な「声」を聴く公共空間が、路上でもネットでも、広がったからだろう。稲葉も本橋もハンナ・アレンとの「現われの空間」が現在の日本に出現していることを指摘する。抑圧され劣位に置かれた者は、「現れる」ことにより、存在を初めて認知される。

 齋藤純一は「現われの空間」が生起するのは、見る者、聴く者のアテンション(注意を預ける)の行為が必要だと説く。「聴く」という行為は「他者にとっての世界の受け止め方を自らのうちに引き入れる行為」であり、それは「自己を安定した位置から不安定な位置へと移動させ」るという意味で、自らをヴァルネラブル(脆弱)にする行為であると指摘する。語ることによりさらに傷つきが深まり、また語り手が勝手に翻訳され領有される危険性があるにもかかわらず、語っても構わない、あるいは語らずにはいられない空間が生起したのは、聴き手側の応答性への信頼、あるいは賭けがあったからであろう。聴き手もまた、自分の世界観を絶対視せず、その修正を迫られることに自分の身を晒したことになる。そうであれば、日本の市民社会は静かに成熟しつつあるのかもしれない。

  他方で、政治が社会の要求に十分に応答しているとはいい難い。自生的に誕生した応答的な公共空間をどのように政治に接続するのかが問われている。

(p.276)