村上靖彦『「ヤングケアラー」とは誰か』(朝日新聞出版)

 私が「ヤングケアラー」という単語を振ったとき、Eさんは「家を出ようかなと思ってます」と自立について語った。通訳役割のなかで自分が消えることへの抵抗としての自立が語られたのだ。

 ろう家族のなかでEさんだけが聴こえるがゆえに、通訳以外の介護にまつわるさまざまな仕事も背負い込んできた(大人になってからの介護が語られるが、子どもの頃からのケアの延長線上ある)。「私が行かないといけない」という、代理や強制といったことが語られている。家族で一人だけ聴こえるがゆえに役割を引き受ける。このケア役割は、自分で選んだわけでも誰かに強制されたわけでもなく、成り行きで自然とそうなったものだ。誰かから直接強制されたわけでもない暗黙の強制のなかで、自分が消え、母の主体性も奪われることが、Eさんが描いたヤングケアラーとしてのコーダなのだ。なによりもヤングケアラーという単語を私が問うた答えは「家を出ようかな」というヤングケアラーから脱却しようという願いだった。「いい子でいなきゃならない」立ち位置から逃れることが語られた。「いい子じゃないのに」という留保は強制されていることの表現だろう。「いい子じゃないのに」「いい子」でもあるから、またもやEさんの存在はあいまいなものとして提示されている。

(p. 176-7)

 

  Eさんは兄の代わりに汚い言葉で罵倒される。(spitzibara:兄が車の事故を起こした場面でのことが直前に語られている)ここでも代理になる。さらに「兄に伝えられなくて」というのはもう一つ大事な要素だ。通訳であるEさんに向けてのベクトルで他者の声が到来するが、自分では母親や兄に向けて内容を伝えられない、というベクトルの非対称性が何回か語られた。媒介する通訳として自分が消えるだけでなく、自分から家族に向けての発信ができない(この箇所に原文では傍点あり)という意味でも自分が消失する。兄に気をつかって、ということもあろうし、子どものときは手話の表現力がなかったという理由もあるだろう。

 確かに怒りを引き受けるという意味では、Eさんの存在が際立つ。ただし自分自身としてではなく、代理としてである。「なんで私がこんなこと言われなあかんのやろ」という代理もコーダの特徴だ。母親の場合は、通訳として医師の説明を代理で聞く。兄との関係でも怒りを受ける代理を務める。怒りを受けるのも、代理という意味では「してあげる」ことと類似する。外部からEさんにの家族に向かうベクトルは、「みんながわたしを頼りすぎていて」、とすべてEさんが引き受けることになってしまうのだ。責任を負うにもかかわらず、代理によって自分が消失するという二面性がある。すべてを引き受けつつも自分が消える。これが、Eさんが描くヤングケアラーとしてのコーダである。

(p.178)

 

  こめっこはEさんにとって、ヤングケアラーとしての役割から自立したアイデンティティの場所として発見される。そこで実現するのはヤングケアラー役割を反転するようなコミュニティだ。

 こめっこで手話の意味も変わる。ヤングケアラーとして通訳を強いられる手話ではなく、自ら選び取った能力としての手話になる。ジーダとして家族へと紐づけられた手話ではなく、こめっこという社会の中で自らを位置付けるものとしての手話である。

(p.186)

 

www.comekko.com