キャレブ・ワイルド 鈴木晶訳『ある葬儀屋の告白』(飛鳥新社)

 母親が子どもを宥めるとき、その人は世界を修復している。

 人の話を(注意深く)聴くとき、その人は世界を修復している。

 老いた患者の衰えた身体を風呂に入れる看護師は、世界を修復している。

 教育に打ち込んでいる教師は、世界を修復している。

 詰まった下水道を修理する配管工は、世界を修復している。

 私は、家業を継ぐことによって世界を修復できることを知った。

……

 大きな計画と大きな行動だけが世界を変えるわけではない。確かに世界を変えるためには、時には大きな動きが必要だ。でもたいてい世界の変革は、優しさをもって、そこにいて、耳を傾ける、というささやかな行為を通じて達成されるのだ。そのためにはまず、あちらの世界からこちらの世界を見るのではなく、頭と心を「いま、ここ」に置くことが何よりも大事だ。

(p.60-61)

 

 何か、あるいは誰かが愛されている時、その何か、あるいは誰かは愛によって「神聖な」ものになる。だから子どもたちは神聖だ。恋人も神聖だ。趣味だって神聖だ。認知症の老人も神聖だ。人から愛されているのだから。死者だって神聖だ。その体はもう動かないが、家族や友人の愛によって「神聖な」ものになっている。

(p.83)

 

  私がテイラー夫人をストレッチャーに移し終えると、看護師はスタッフたちが縫った「名誉のキルト」を取り出した。私がそれをストレッチャーの上に拡げるのを手伝いながら、看護師は説明した――このキルトはスタッフの愛と思いやりで遺体を包むことを意味するのです。そして彼女は「ちょっと待っていてください。すぐに戻りますから」と言って、出て行った。

 数分後、彼女は戻ってきた。

「準備オーケーです。ここから名誉の更新をします。ここから玄関まで、スタッフ全員が壁に沿って立って、お見送りします。あなたはテイラー夫人のストレッチャーを車まで押していってください」

 私は驚いて尋ねた。「ここでは全員にそれをするのですか?」

 看護師は答えた。「はい。昼でも夜でも」

……

 テイラー夫人を車の後部に載せた時、すばらしい一日だったと感じた。長い一日だった。私は疲れていた。でもルーサー・エイカーズ(老人ホーム)はテイラー夫人を讃えていた。スタッフは自分たちの悲しみをちゃんと表明していた。居住者の一人を失ったという事実を、一人ひとりがしっかりと受け止めていた。彼らは私にまで感謝してくれた。彼らを死を深く理解していた。彼らの行為は限りなく神聖なものだった。

(p.84-85)

 

 私たちの脳は、生物学的に、黙っていても未来を予測するようにできている。だから私たちは生き延びるために、必死に確実性を求める。他のものをすっ飛ばして、紙に飛びつこうとする。……

…… 

 そのため、私たちは占い師とか、宗教の教祖とか、経済の先行きを予想する評論家とか、安心感を与えてくれる政治評論家にすがったりする。満足のゆく説明が得られないと、安心できない。

 ところが沈黙を前にしたとき、私たちは生存本能や生物学的特性を意識的に否定しなくてはならない。そのとき、私たちの答とか、説明とか、確実性とか、天国への導きだけでは、私たちの疑問や疑念は解消できないことを悟る。

 実際、確実性の欠如が恐怖の土台になっている。おそらく私たちが死を恐れるのは、沈黙を前にしたとき、安心感などもてないからだ。私たちは死を恐れるのと同じくらい、沈黙を恐れる。癒しよりも沈黙を恐れているかもしれない。

 沈黙の中で落ち着くことが、死と折り合いをつけるための第一歩かもしれない。というのも、いちばん基本的な生物学的レベルでは、死と沈黙は同義だ。反対に、沈黙の中で安らいだ心をもてることは、生きていくための第一歩かもしれない。

 私がその後に学んだように、死はそれほど恐ろしいものではないかもしれない。実際、死は人間の経験の中で最も美しいものかもしれない。

(p.93-95)

 

 カトリックの司祭で霊性に関する多くの著作があるヘンリー・ナウエンは、こう述べている。

「どれほどの違いがあろうとも、人はみな無力な者として生まれ、無力な者として死ぬ。その間の人生のわずかな違いは、この絶大な真理の前ではちっぽけなものにすぎない」

……

……死の霊性はこう教える。死は神秘的なかたちで、私たちを一つにする。同族意識による分断は妄想であることを悟らせ、私たちを本来の姿に戻してくれる。

(p. 138-139)

 

 悲嘆があることは病的ではない。悲嘆と共にいることは健康的なのだ。

 悲嘆を無理に終わらせる必要はない。悲嘆は常に私たちと共にある。それでいいのだ。

(p. 150)

 

 ……私は、こういう状況、つまりジムのような突然の死が深い苦痛と感情の混乱をもたらしているような状況を経験するのは初めてではないことを思い出した。そういう状況をどう乗り越えるかに関して、私はドニーのときよりは賢くなっていた。死や沈黙を経験したことで、私の言葉は以前よりも鍛えられているはずだ。

(p. 162)

 

  私は彼女に慰めの言葉をかけたかった。そのとき、ホスピスの看護師から教わった、三種類の接触の仕方を思い出した。触りたいから触る、何かを要求して触る、そして、めったにないが、献身の意を込めて触る。献身的に触ることは、相手の価値を最大限認めることだ。無理にやるわけでもなく、きまりが悪いわけでもない。むしろ尊敬をこめて触るのだ。そして、そのように触ると、気持ちが楽になる。

(p. 163)

 

  悲嘆は野性的なものだ。無理やり何かをさせようとすると、それを殺してしまうことになる。巨大な白い鮫みたいなもので、檻に入れると死んでしまう。

(p.166)

 

……死すべき運命を背負い、実際に死ぬからこそ、私たちは自分に対しても、まわりの人に対しても、より正直になれる。

(p. 196)