永井玲衣『水中の哲学者たち』(晶文社)

手のひらサイズの哲学

 

 対話というのはおそろしい行為だ。他者に何かを伝えようとすることは、離れた相手のところまで勢いをつけて跳ぶようなものだ。たっぷりと助走をつけて、勢いよくジャンプしないと相手には届かない。あなたとわたしの間には、大きくて深い隔たりがある。だから、他者に何かを伝えることはリスクでもある。跳躍の失敗は、そのまま転倒を意味する。ということは、他者に何かを伝えようとそもそもしなければ、硬い地面に身体を打ちつけることもない。もしくは、せっかく手を差し伸べてくれた相手を、うっかりバスから引き倒して傷つけてしまうこともない。

(p.29-30)

 

 他者とわかり合うことはできません、他者に何かを伝えきることはできません。という感覚は、広く共有されているように思う。わかりあうことができないからこそ面白い、とか、他者は異質だからこそ創造的なものが生まれる、とかいう言説もあふれていいる。その通りだ。その通り。全くもって、完璧に、同意する。だがわたしはあえて言いたい。

 それでもなお、わたしはなお、あなたとは完全にわかりあえないということに絶望する。

(p.30)

 

 信頼できる人に向けてならまだしも、見知らぬ人に向けて飛翔するのは、本当にこわいことだ。無防備で、無謀で、おこがましいことだ。だからこそ、対話はおそろしいものでありつづける。

(p.31)

 

 ひとは時に、周りはみんな同じで、みんなわかりあっていて、共感していて、自分だけがそこに馴染めないと思っている。だが本当は、世界は曖昧で、不確実で、複雑で、そこにひとびとは、なんだかさみしかったりわからなかったりイライラしたり笑ったりしながら、生きている。「わたしだけ」がこの世には無数にあって、それぞれにさみしくて、バラバラで、めちゃめちゃで、そういう意味でわたしたちは、平等である。

(p. 59)

 

 特に選んだわけではないにもかかわらず、わたしはわたしであることを引き受けねばならない。この数奇な事実を飲み込むのに、わたしたちは長い時間をかけて、たくさんの回り道をする。これは、ただ単に私が私であることを超えて、私に降りかかってくるさまざまなことを引き受けることも含まれる。わたしがこの紛れもないわたしであることに加えて、この時代のこの日のこの場でのわたしであること、そういうったわたしに付け加わるものも、なんとか引き受けたりこなしたりしながら、私たちは生きている。

 そんな中、ふと問いがよみがえる。友達の人生を歩めないのはなぜ。誰かがわたしにささやきかける。……

 もしかしたらこれは、わたしはわたしをいつ選んだのか、という問いであるのかもしれない。選んでいないこれを、どうやって引き受ければいいのか、と。

(p. 76-6)

 

 わたしは祈る。どうか、考えるということが、まばゆく輝く主体の確立という目的だけへ向かいませんように。自己啓発本や、新自由主義が目指す、効率よく無駄なく生をこなしていく人間像への近道としてのみ、哲学が用いられませんように。それらが見せてくれる世界は、甘い甘い夢だ。その甘さはわたしたちを息苦しい湿度の中で窒息させる。

(p. 125)

 

 専門用語とは、物事を円滑に進めるための、ただの道具だ。哲学者が何百ページもかけて説明したことが、たった一言「超越論的統覚」で済むなら楽ちんだ。だから、まず用語の難しさで哲学に壁を感じているひとがいたら、専門用語は、ギャルが「精神が非常に高揚している状態」を「テンアゲ」で済ませるみたいなものだと理解してほしい。

 その程度のことだ。

(p. 130)

 

 大学院生のとき、友達の展示を見に日本橋を歩いた。足早にすれ違うひとはみんな、何か役割をもっているような気がして、ひどく心細かった。みんなが立派に見える。意義を持った、一人前の大人に見える。ピカピカの靴、新しいスーツ、全員年収1億くらいありそう。

 10年以上前に見た番組で、オードリーの若林正恭が「楽屋でペットボトルのラベルを読み込んでいる」という話をしていた。ただ座っているのはつらい、だけどドリンクのラベルを見ていれば「ラベルを見てるヤツになれる」と。

「なれる」という言い方が記憶に残る。ただ存在していることは、いたたまれない。だから、わたしたちは何か役割を得たいと思う。それは、アイデアを出す人だったり、議論を記録するひとだったり、荷物を運ぶひとだったりする。もしくは、傘をさしているひとだったり、ラベルを熱心に読んでいるひとだったり、スマホをいじっているひとだったりする。

 反対に、役割を持っていないひとをわたしたちは軽視する。眼差しの圧力でそのひとを押しつぶそうとする。まなざしは、存在を小さくすることができる。役割を持て、役に立て、と𠮟りつけることができる。

 だがその声は、呪いである。そして、呪いの杖は常に壊れている。呪文を唱えて繰り出される魔法は、あたり一面に撒き散って、私にも突き刺さるだろう。呪いはあっという間に血管をかけめぐり、わたしを殺すだろう。いつまでも、いつまでも、呪いを撒き散らしながら。

 

 少し前から「ただ存在する」運動を始めた。駅に着くまでの電車の中で、ただ存在するひとになる。町の中で、植え込みに座って、何もしないひとになる。

「話しかけられるのを待っているひと」になってはいけない。「待ち合わせしているひと」にも「ぼーっとしているひと」「疲れたから休んでいるひと」にもなってはならない。そうではなく、わたしはただ、存在するひとになりたい。

(p. 189-190)

 

 小指がいないとさみしいものだ

 役に立たないものは、愛するほかないものだから

 

詩人・寺山修司の詩。

(p.226-7)