坂井佑円/西平直 編著 『無心のケア』(晃洋書房)

 ……「ペイン」は外から和らげてもらうことが可能である。医療は「ペイン」を取り除く手助けをする。ところが、「クライシス」は、外側から取り除くことができない。クライシスは、その当事者が自ら通り抜けるしかない。内側から温め、内側から変わってゆくしかない。クライシスを「癒す」ことはできない。その代わりクライシスは「癒える」。内側から癒えて〈「癒えて」に傍点〉ゆく。

(p. 25)

 

 ケアの受け手(患者・クライエント)はクライシスの中にいる。ビリーフが崩れ去った困難を抱えている。そこで新たなビリーフの構築が望まれるのだが、その方向に話を進めない。その前にクライシスに立ち止まる。急いでそこから離れてしまわない。

 そう考えてきたのだが、クライエントは辛いと言っているのである。早く抜け出したい。それなのに、この状態を大切にするとは、本人の「ニーズ」に反するのではないか。本人の「ニーズ」に反してまで、クライシスを大切にするのか。

 むしろ早く逃げだす方法を一緒になって探すべきではないか。あるいは、「ビリーフに戻りたい」という気持ちも尊重する。混乱を大切にしながら、同時に、混乱から逃げ出す手助けをするという、逆方向のベクトルに引き裂かれてしまう。その葛藤を「持ちこたえる」ことが、ケアする側には必要になる。

 おそらくこの場合、まずケアする側が、葛藤を「抱え込む」。最初からクライエントに(葛藤を「抱え込む」ことを)要求することはしない。ケアする側が葛藤を抱え込むことによって、クライエントも葛藤に慣れてゆくことが期待されている。

(p. 34-5)

 

……参与観察を通して、スピリチュアルケアはある行為に特定、またはマニュアル化できるものではなく、その場、その場で普通のケアが「スピリチュアルケアの意味を帯びる」という傾向が見えてくる(安藤2008、19)。

(p. 92)

 

稲垣応顕氏の「一種のグリーフ(悲嘆)体験」(p. 96-103):要旨

 気づかずに妊娠していた妻にトラブルが起きる前に見た夢。

 真っ白でどこまでも続く空間で、”水色”の地に大きな”クマ”の描かれたふわふわのセーターを着た赤ちゃんが足を投げ出して座り、積み木遊びをしている。声をかけるとニコニコするが、呼んでも動こうとはしない。近づこうとしても、どうしても距離を縮めることができない。そのうち、ニコニコしながら、「その白い空間の奥へ”スウーッ”とフェードアウトしていった」。

 その夢の場面と入れ替わるように、妻が苦痛を訴えて起こす。救急に運び込み、緊急手術で命は救われたが、胎児を失う。失った子に二人は怜と名前を付ける。

 なかなか自分を取り戻せない妻を、著者はある日、映画『HOMEーー愛しの座敷わらしーー」(荻原浩原作/水谷豊・安田成美 主演、東映)に誘う。妻は「温かく大泣きした」。慰められた様子の妻と、映画のチケットに無料券がついていたので、ゲームセンターへ行き、妻はクレーンゲームで”水色”の小さなぬいぐるみの”クマ”を釣り上げる。夫婦は帰りの車の中でクマに”怜もどき”と名前をつける。

 ”怜”が逝った後の2,3か月、家の中では不思議な物音が続く。恐怖心はなく、むしろ「抱くことのできなかった我が子が”あっち”に行かず、ここにとどまり一緒にいるような感覚になり気持ちが温まった」。

 

稲垣氏のもう一つの「トランスパーソナルな体験」(p. 103-104):要旨

 2019年2月22日、僧籍を離れる決心をした著者が、実家である寺の本堂脇の部屋で、両親、寺の住職、檀家総代とで話し合いをしていた時のこと。本堂とその部屋の屋根だけに”ザーっ”と波打つような強く大きな音が流れ、建物が”ガタガタガタガタ”と大きく揺れた。調べても地震は起こっていなかった。その場にいた人たちの結論は「亡くなっている檀家さんが住職と若さんに、お別れに来られた」。

 

 ラム・ダスは、その講義録である『神への道ーー「バガヴァッド・ギータ―」を生きる」のなかの、行為について述べている箇所で、「定め」(ダルマ)を果たすという点をとりあげ、与えられた役割(仕事)に専心する人に見られる充足感や平静さに注目している。……

 

  私たちはみんな、あまりにも自分のメロドラマに巻き込まれて(「巻き込まれて」に傍点)おり、せわしなく自分が演じ手であると思い、自分がそのすべてをやっているのだと思っている――だが実際には、すべてただこの法則的なことが生じているにすぎない。なんと奇妙なことであろうか。(Paths to God: Living the Bhagavad Gita, P. 63 協調は原著者、以下同様)

 ここでいうメロドラマとは、「私」(自我)という「行為者」(Doer)によって行為がなされ、行為の結果はそのまま「私」の評価にかかわってくるという思い込みである。このとき行為は、他者から分離した行為主体として意識される。メロドラマのなかでは、人は自分の行為がどうなるかを心配し、その成功を望み、失敗を恐れる。たえず行為の中にマインドが入り込み、それを評価し、非難し、他者を意識する。多くの場合、行為はその行為のためにあるというより、それをつうじて他者の承認や称賛をえるための手段になる。行為は自我へと関連づけられ、自我をめぐるメロドラマの文脈の中で展開される。これはケアの行為においても言えることであろう。

(p. 131-2)

 

……ヴィヴエーカーナンダ(spitzibara注:ヨーガの教えを体系化したことで知られる)も善行を勧めているが、それは相手ではなく自分自身を助けることになるからである。「世界は、あなたや私の助けなど待っていない。それでも私たちは仕事をし、たえず善行を積まなければならない。なぜなら、それが私たち自身への恵みだからである。それが、私たちが完全となれる唯一の道である」。

(p. 137)

 

 したがって、大切なのは、未来に生じる結果については自分がコントロールしえないことだと理解して、それを手放し、どんな期待を抱くこともなく、いまここで生じている行為に集中することである。

(p. 139)

 

  あなたのなかで働いている自然の法則を見ることができるようになるまで、あなた自身の生、あなた自身の行為を、離れたところから興味を持って観察しなさい。そうすれば、何が怒りになるのか、何が愛になるのか、何が欲望になるのかがわかる。それらすべてを見るのだ――それにとやかくいうのではなく、それを判断するのではなく、ただそれを見るのだ。あなたがそうした視点を発達させはじめると、あなたの行為が次第に執着から起こらなくなり、ものごとの単純で法則的な流れから生じるようになることがわかる。(Paths to God, pp63-64)

 

……有心、そこでは欲望に囚われ、好きなものを追いかけ、嫌いなものを必死に避ける。この欲望の主体である「私」がこの「世界」のものに対して様々な「はからい」を持つ。(主と客の二分法もここで生まれる)。しかし、無上の世界では、好きなものが得られない。嫌いなものが避けられないということが起こり、苦しくなる。また、その苦しさ自体を避けたい、ともがいても避けられず、苦しみはますます深まってゆく。この、どうすることもできない苦しみの中に、その有心のなかに、無心の哲学が初めて意味を持つだろう。

(p. 165-6)

 

 私が声をあげるのでない。内なる何かが、無心の私を、突き動かしてしまう。したがってそれは、「我」の怒りから生じた反応ではない。「我」に囚われた復讐から生じた抵抗ではない。むしろそうした「我」から離れ、「我」を超えてゆく方向性の中に生じてくる。「我執性」という言葉を使ってみるなら、我執性に囚われた復讐ではなくて、「我執性」から離れてゆく方向性の中で、自然に生じた反応としての抵抗。あるいは、その抵抗そのものが「我執性」から離れてゆくことにつながるような、無心の抵抗。「抵抗の拠点としての無心」ということを考えたいと思っているのである。

(P. 187-8)

 

  要するに、無心であるとは、自然のまま、あるがまま、そのまま、なすがまま、といった生き方のことだ、とひとまずは言えそうである。心が、木や石のように、死人のように、なんら主張することもなく、怒りもせず、笑いもせず、ただ流れの中にまかせていくのみ。……

 大拙はまた、あるがまま流れにまかせる受動性の極致としての無心の境地を、「自然法爾の世界」であるとも述べている。(115頁)。「自然法爾」とは、浄土真宗の用語であるが、言い換えればそれは、色も形もない世界であり、だからと言って、普段の私たちが生きている形を持った感覚的な世界、感情を持ち意思をもってあれこれと思考しながら迷っている世界と無関係にあるわけではない。むしろ、私たちの住んでいる形ある世界に、形のない「無のはたらき」が映ってくるのだという(120頁)

(P。223)

 

 このように見ていくと、大拙のいう無心とは、心がモノ化して、無感情、無感覚になることではなく、こちらが能動的、恣意的、操作的に、計らいをもって世界を捉えようとする態度を手放した時に、初めて立ち現れてくる、絶対の受動性としての自然そのままを体現した心のあり様を指していると言うことができそうである。

(P. 224)

 

 ウパスターナとは、共に居ることによって、その時が到来するのを待つことでもある。その人の傍らにいて、寄り添うことによって、じっくりと待つ。やがて、その時が訪れると、沈黙の深みをもって、苦悩する者に呼び掛け、ゆっくりと気づきを促し、癒していく。それは、大いなる慈愛に包まれる瞬間であり、つまりは、「無のはたらき」である。

 本来の意味で、「無心のケア」が開かれるのは、まさに存在の向こう側から「無のはたらき」が立ち現れてきたときなのである。しかも、この時ケアしているのは、ほかならぬ「無のはたらき」なのだ。それは、純粋に、自然に、あるがままに、清々しいまでに、無心である。だからこそ、そこに居合わせた者たちもまた、思いがけず無心となり、心の変容体験が起こるのである。

(P。229)

 

 

 

 

ちなみに、この本を機にネットで検索して調べた、

カバットジンによるマインドフルネスの7つの基本的態度とは、以下。

 

(1)自分で評価をくださないこと
(2)忍耐づよいこと
(3)初心を忘れないこと
(4)自分を信じること
(5)むやみに努力しないこと
(6)受け入れること
(7)とらわれないこと