『「死にたい」と言われたら 自殺の心理学』末木新 (ちくまプリマ―新書)

予防すべきでない「自殺」をするためのハードル

 仮に自分のやりたいことをやりたいだけやって、自分の人生にも充実した意味を感じることができ、いよいよやることもなくなって退屈で仕方なくなってきたので自殺することが理想的な死に方だったとしても、きちんとした自殺を実現するためには、まだいくつかのハードルが残されています。

……

 こう考えてみると、予防されなくても良い自殺をするのはなかなかに大変なことです。第一に、他者に経済的な迷惑をかけなくていいように、手段や場所を熟慮する必要があります。第二に、他者に通常死亡する以上の追加の心理的な悲しみを与えなくてもいいように、きちんと遺された者が自殺が起こることを予期できるように事情を説明し、死ぬことについて納得してもらう必要があるということになります。

 このような「自殺」は、現状起きている自殺のどの程度の割合を占めるでしょうか。これは私の直感ですが、おそらくは、こうしたちゃんとした「自殺」は、ほとんど起きていないのではないでしょうか。

 

合理的な判断をすることは可能か?

 第三に、ここが最大のハードルとなるわけですが、理想的な自殺をする際には、自殺をしたとしても死ななければ得られたであろう良きことが失われることはないということを合理的に判断できなければなりません。死は不可逆なものであり、少なくとも現状のテクノロジーでは、失敗したらやり直しがきかないからです。

 こうした判断をするための手続きとして参考となるのは、安楽死のプロセスでしょう。……

(p.143-6)

 

 すでに説明したように、現状では、ある個人が近いうちに自殺をするかどうかということを予測することはできていません。同様に、ある個人が近いうちに幸福になるか不幸になるかを予測することもできてはいません。だからこそ、我々は、死に際しての決断については慎重にプロセスを踏む必要があります。苦しさに追い詰められて死を考える時には、自分だけでなく、身近な人や、信頼できる専門家など複数の人々と一緒にその決断の是非を検討しなければ、ちゃんとした自殺はできないはずです(その過程こそが、自殺予防的な、危機介入的な機能を果たすことでしょう)。

 そして何よりも、我々が苦しくなった時に、みんなでゆっくり考えることができるような環境を多くの人が持てるような社会を我々は作っておく必要があります。そのような社会が実現した時に初めて我々は、「死にたいという奴は、自分で決めたことなのだから死なせておけばよい(ただし、一人で勝手にではなく、みんなでゆっくり考えるような、きちんとした手続きをへたうえで)」ということができるようになるのではないでしょうか。

(p. 151-2)

 

未来展望

 すでに見たように死や自殺に対する態度は普遍的なものではなく、時代によって変わってきています。今我々が考えている死や自殺を予防しようという態度も、おそらくは未来永劫つづくものではないでしょう。

 こうした態度は、おおむね経済と科学技術の発展の程度に影響を受けています。……

……

 仮にこの先も経済と科学技術が発展し続けていけば、今以上に不老長寿に近い状況が達成されるでしょう。その時には、我々は自分自身の人生を満足の上で終わらせ、幸せな死を達成するために、自殺をすることを目指すようになるはずです。他殺や事故死や病死では、それが間違いなく達成できないからです。

(p. 153-4)

 

ちなみに最終第5章のタイトルは、「幸福で死にたくなりづらい世界の作り方」