カナダMAID対象者要件緩和法案 Bill C-7

www.thestar.com

 

Bill C-7 introduces a critical departure from the original legislation, including an elimination of the 10-day waiting period between approval and lethal injection, removing the provision of a “reasonably foreseeable” death for those with disabilities and chronic illnesses and dropping the need to reaffirm mental “competency” at the time of MAID provision.

What this means is that likely an additional 6,000 Canadians will die each year as a result of MAID. These people will not be terminally ill, but rather, individuals with chronic medical conditions and disabilities, sometimes also mental illness, whose suffering will lead them to choose death.

 

ケベック州最高裁が命じた対応の期限は、コロナ禍で延長されて12月18日。

オランダとベルギーの安楽死後肝臓提供に関する論文メモ

Evaluation of Liver Graft Donation After Euthanasia

Marjolein van Reeve, et.al.

JAMA Surg. 2020;155(10):917-924.

https://jamanetwork.com/journals/jamasurgery/article-abstract/2769118

 

だいぶ前に存在を知って、ずっと読みたかった論文をありがたくもゲットしてくださった方があり、いただいたので、早速に読んでみた。

 

まず両国の安楽死後臓器提供について、目についたことをメモ。

 

  • ベルギーの安楽死後臓器提供は2005年1月から。オランダは2012年9月から。

 (ベルギーが2005年からというのは前のブログで拾っていて、オランダは確認できないままに同時期なんだろうと思っていたけど、案外に遅かった)

 

  • これまでの後ろ向き研究からは、ベルギーの安楽死者のうち臓器ドナーに適していた人は10%。

 

  • 近年、ヨーロッパの移植圏では、心臓死後肝臓移植が増えており、2010年の42件から2019年には160件に急増。(これは、スペインの臓器移植事情について調べた際に、脳死ドナーが減っている対策として、救急救命室で延命している患者が有望な心臓死後ドナーのプールと目されている、と言われていたことと重なる。)

 

  • 両国の安楽死では、まず鎮静のため使われるのが、推奨としてはチオペンタール。オランダではプロポフォールも。その後、筋弛緩剤が使われる。rocoronium bromide, atracurium besylate, cistracurium besylateなど。

 

  • オランダでは、Erasmus MC University Medical Center と Maastricht University Medical Center が安楽死後臓器提供のマニュアルを開発。オランダ移植学会も安楽死後臓器提供に多職種全国ガイドラインを作成。ベルギーでは、全国的なガイドラインはないが、すべての移植センターにそれぞれの(local)プロトコルがある。

 

  • 安楽死と臓器提供はそれぞれに独立したプロセスで意思決定されることが、厳格に求められる。すでに安楽死を認められた患者の側からの自発的な申し出によって臓器提供のプロセスが始まる。医師から話を持ち出してはならない。

 

  • 心停止から5分間待って、臓器摘出のプロセスが始まる。オランダでは、この5分間はドナーを手術室に移すこと禁止。

 

次に、この研究に関するメモ

 

  • 著者らの知る限り、安楽死後肝臓提供に関する、これまでで最大規模の研究。

 

  • 両国合わせて、2018年7年1日までに行われた安楽死後臓器提供による肝臓移植47件について、生命維持中止による心臓死後臓器提供による肝臓移植542件と、比較。同時期の総数は59件だが、うち12件は機械によって臓器を保存しているためコホートから除外。

 

 

  • 死戦期の継続時間が、安楽死ドナーは中央値7分に対して、心停止ドナーは同14分と安楽死ドナーが短いが、それが生存率アップにつながってはいない。

 

  • コホート集団ドナーのうち、53%が女性で、後者は女性が38%。年齢の中間値は前者が51歳(44-59歳)で、後者が49歳(37-57歳)。生存率は、前者が1年後87%、3年後73%、5年後66%に対して、後者では1年後74%、3年後61%、5年後57%。著者らは、有意な差ではないとする。

 

  • 上記の要因として、①安楽死を希望する患者はもともと体力が低下していることが多く、この点は外傷患者と異なっている。②安楽死に使用される筋弛緩剤との関連は不明瞭だが、比較的多くの筋弛緩剤が使用されること、それが肝臓と腎臓で排出されることなどが関係している可能性あり。③安楽死で使用される薬剤の死後の影響や、臓器にcold flushが行われる際の最初の数分間の影響も不明。これらの点については、さらなる研究が必要。

 

  • 著者らが研究に際して立てた仮説(生命維持中止に伴う心停止後臓器提供に比べて安楽死後臓器提供の成績が良いのではないか)については、十分に有意な差が認められなかった。

が、安楽死後肝臓提供の予後成績は生命維持中止に伴い心停止後臓器提供の成績と類似しており、プールが約7%増大すると見込まれることからも、CDCドナーのプール増大させれる策として安楽死後肝臓提供は倫理的に正当化されうる。

 

  • コホート集団では女性が多いが、この研究では統計的な有意差ではない。ただしレシピエントとの間で男女間のミスマッチのリスクが高い可能性はあり、そのために生存率が低い可能性もある。(女性が多いことの背景には様々な社会的倫理的な問題が潜んでいると思うけど、この論文の著者らにはもともと関心がない問題なのだろうな)

 

  • これらの調査結果から、安楽死後肝臓提供は臓器ドナーのプールを拡大する貴重な資源となると思われる。ただし、適切なドナーの選別や運搬の問題などから、安楽死後に提供される臓器はハイリスクと考えるべき。

 

  • オランダのガイドラインでは、医師から安楽死後臓器提供について話を始めてはいけないことになっているが、新たなドナー法(Donor Act)によって果たしてこの規定は倫理的なのか議論が再燃している。医師から話を持ち出すことは、患者に社会的な圧力をかけ、医師は患者を害してはならないという倫理原則に反する可能性がある反面、こうした情報を伏せておくことは患者の自律原則に反するのではないか。安楽死においても臓器提供においても、患者はすべての情報を得たうえで自己決定できるべきであり、ドナー登録をしている患者に対して医師が情報提供しなければ、患者の自律が損なわれることになる。

(この点に関して、コメンタリーで、安楽死そのものの是非がこの論文では論じられていないことのほか、医師から話題をスタートすることを認めれば、医師に説明する圧がかかるのではないか、ひいては臓器提供安楽死にもつながるのではないかなど、すべり坂懸念が指摘されている)

 

伊藤亜紗『記憶する体』 

伊藤亜紗『記憶する体』 春秋社 2019年

 

「『右手がなくなって大変だ』と思っている人に、『我々はもとからないで』と言うのも、なんか驕っているかんじがしますしね(笑)。なくなった痛みを知っているわけではないので、慰めになっていない気がするんで、あまり〔そういう〕物言いはしないですけどね。その人にはその人のアプローチがあると思うんでね」

(p.175 先天的に左肘から下が欠損している川村綾人さん)

 

 生きる方法を手探りする中で森さんが考え付いたのは、「動物になる」という道でした。つまり、人間をやめようと思ったのです。

「手負いの動物って泣かないですよね。ただ生きようとするじゃないですか。人間としての思考を止めて、動物のように生きるしかない」

「ぼくは普通に生きることを途中で諦めたというか。『普通に生きるのを諦めて命をとる』のと『普通に生きようとして命を諦める』のどっちなのかというときにぼくは命をとったんです」

 自分の現状を俯瞰して「なぜ」と問うたり、あるいは何らかの判断を下したりするメタ的な意識の動き、森さんは、自分の中にある、そうした人間としての機能を停止させる道を選びます。それはある意味では「人間をやめる」ことになる。でも、ただ生きるためにはそれが必要だったと森さんは言います。

(p. 185 バイク事故で左腕の神経叢引き抜き損傷をおった森一也さん)

 

 チョンさんの足の痛みは、発病してしばらくの間は、変化はあるとしても痛みそのものが弱まることはありませんでした。夜も痛くて眠れず、薬も全く効かなかったそうです。

 一瞬たりとも痛みから自由になる方法がなく、どこにも出口が見えない状況。病気そのものの治療法が見つかっていない以上、「いつかは解放される」という希望を持つこともできません。チョンさんは言います。「この痺れが一生続くと思うと、わーっと爆発するような感じでした」

……「この痛みから逃れられる方法が死であるならそれでもかまわない、と思うこともあった」と言います。特に夜も眠れないのが辛く、「家族を起こして、『足を切ってくれ』と頼んでいた」……

 発病してからしばらくのこの痛みの時期、チョンさんとチョンさんの身体のあいだには、遠い距離がありました。「最初は、これはもう自分じゃない、自分の体はこうじゃない、という感じでした」。この思い通りにならない体を、自分の体だと認めることができなかったのです。

 それは言いかえれば、かつての健康な自分、記憶の中の自分の体の方こそを、本当の自分の体だと思っていたということを示しています。そのために、絶えず過去の自分の体を基準にして現在の体を評価する意識がはたらき、現在の体を「これは違う」と拒否してしまっていました。

(p. 216-7 CIDP 慢性炎症性脱髄性多発神経症のチョン・ヒョナンさん。在日朝鮮人三世)

 

「痛みは孤独感がある」とチョンさんは言います。「痛みってすごく孤独感があるんですよね。だんだん『どうせお前にはこの痛みは分んないんだよ』という感じになってくるんですよね。自分だけが、この痛みを知っている、と」。「分かってほしい」という思いがあればあるほど、「分からない」を突きつけられ、本人も周りもいっそう苦しむことになります。

 チョンさんの痛みの感じ方が変わった背景にあったのは、逆説的にも、「すでに痛みは分有されていた」と言う気付きでした。

 講演をきっかけに自分や自分の置かれた環境のことを振り返るうちに、痛みを抱えているのはチョンさん本人だけではなかった、と言うことに気づいたのです。

 ……

「だんだん、子どもの盗癖が出たりして、ぼくだけが痛みを抱えているんじゃないということに気づいたんです。家族の中で、何か変化があったことで、みんなそれぞれ痛みを抱えながら小さいながらも自分なりに進もうとしているのをまざまざと感じさせられたら、なんだろう、この『自分だけ』みたいなやつは、と気づいたんです」。

「私の痛み」から「私たちの痛み」へ。注意すべきなのは、これが「共有」ではなくて「分有」だということでしょう。家族は決して、チョンさんの痛みを自分のこととして理解したわけではない。あくまでもチョンさんの病気との関連で自分に起こった痛みを、それぞれが生きている。

(p. 221-2 同上)

 

 つまり、体の記憶とは、二つの作用が絡み合ってできるものなのです。一つは、ただ黙って眺めるしかない「自然」の作用の結果としての側面。もう一つは、意識的な介入によってもたらされる「人為」の結果としての側面です。

(p. 271 エピローグ 体の考古学)

 

 もしかすると、三十年後の人類がこの本を読んだら、まるで白黒テレビでも見るかのようにノスタルジーを感じるのかもしれません。「へえ、三十年前の人類の体には、こういう感覚があったのだなあ!」。これは、本書がいつか考古学的な資料として読まれる可能性です。

 身体の考古学なるものがあるとすれば、いつかそのような視点で読まれることは、著者にとってはこの上なく悦ばしいことです。そしてできることなら、単なる「過去の一時点における体の記憶」としてではなく「賢者たちの知恵の書」として読まれたい。つまり未来のその時代を生きる体たちにとって、なんらかの手がかりや道筋を示す書物になっていたらいいな、と思います。

 なぜなら、どんなに科学技術が発達したとしても、思い通りにならないことと、人為的に介入しうることとの間で、人類は悩み、そして発見し続けるだろうからです。条件は変わるのだろうけれど、思いとしては同じ。それが体を持つ者の宿命だからです。

(p. 274-5 エピローグ)

伊藤亜紗『見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)

……視覚をさえぎれば見えない人の体を体験できる、というのは大きな誤解です。それは単なる引き算ではありません。見えないことと目をつぶることとは全く違うのです。

 見える人が目をつぶることと、そもそも見えないことはどう違うのか。見える人が目をつぶるのは、単なる視覚情報の遮断です。つまり引き算。そこで感じられるのは欠如です。……

 それはいわば、四本脚の椅子と三本脚の椅子の違いのようなものです。もともと脚が四本ある椅子から一本取ってしまったら、その椅子は傾いてしまいます。壊れた、不完全な椅子です。でも、そもそも三本脚で立っている椅子もある。脚の配置を変えれば、三本でも立てるのです。

 脚の配置によって生まれる、四本のバランスと三本のバランス。見えない人は、耳の働かせ方、足腰の能力、はたまた言葉の定義などが、見える人とはちょっとずつ違います。ちょっとずつ使い方を変えることで、視覚なしでも立てるバランスを見つけているのです。

……

 異なるバランスで感じると、世界は全く違って見えてきます。つまり、同じ世界でも見え方、すなわち「意味」が違ってくるのです。(p.29-31)

 

……見える人が見ない人に対してとる態度は、一般的にはどうしても「情報」ベースになりがちだからです。そこに「意味」ベースのかかわりも追加していきたい、という意図が本書にはあります。

「情報」ベースの関わりとは何か。乱暴に図式化してしまえば、それは福祉的な関係です。見える人が見えない人に必要な情報を与え、サポートしてあげる。見える人が見えない人を助けるという関係がこの福祉的な発想の根本にはあります。(p. 35)

 

 情報ベースでつきあう限り、見えない人は見える人に対して、どうしたって劣位に立たされてしまいます。そこに生まれるのは、健常者が障害者に教え、助けるというサポートの関係です。福祉的な態度とは「サポートしなければならない」という緊張感であり、それがまさに見える人と見えない人の関係を「しばる」のです。(p. 39)

 

……視覚を使わないと得られる情報の量はどうしても限られてしまいますが、だからこそ生まれる意味がある。見えないからこその、世界のとらえ方、体の使い方がある。(p. 46)

 

例として、

坂道。見える人には道。進むべき方向。見えない人は山を下っていくイメージ。

富士山。見える人は二次元、見えない人は三次元でイメージしている。

太陽の塔。見える人には表裏がある。見えない人には死角がない。

つまり、見える人は視点による表裏、外と内などのヒエラルキーがある。見えない人にはそれらは等価。

 

視覚障害者が例えば、本棚から目当ての本を探し出すのを見たときに「すごい」と言うことについて)

 まずひとつめの問題は、「すごい!」という驚嘆の背後には、見えない人を劣った存在とみなす蔑みの目線があることです。……

……本棚から本を探し当てることは、見えている人にとっては「当たり前」の行為です。しかし、見えない人にとっても、それは同じように「当たり前」のことのです。自分にとって当たり前のことを「すごい」と言われたら、誰だって「おいおい、ナメないでおくれよ」と思うでしょう。

 だから私は、序章にも書いたように、「すごい!」ではなく「面白い!」と言うようにしています。……「へえ、そんなやり方もあるのか!」というヒラメキを得たような感触。「面白い」の立場にたつことで、お互いの違いについて対等に語り合えるような気がしています。(p. 85-6)

 

 いずれにせよ、事故や病気によって何らかの器官を失うことは、その人の体に、「進化」にも似た根本的な作り直しを要求します。リハビリと進化は似ているのです。生物は、たとえば歩くために使っていた前脚を飛ぶために作り替えました。同じように、事故や病気で特定の器官を失った人は、残された期間をそれぞれの仕方で作り替えて新たな体で生きる方法を見つけます。(p.113-4)

 

 進化の過程を観察することはできないけれど、進化することを意識して体を扱うことは可能です。進化しうるものとして自分の体をまなざすこと。それこそ当たり前の体を離れて、見えない人の体に「変身」することに他なりません。そしてそれこそが、本書の冒頭で述べたような「特別視」を超えた関係を生み出すのではないでしょうか。(p.115)

 

 先に「しょうがいしゃ」の表記は、旧来どおりの「障害者」であるべきだ、と述べました。私がそう考える理由はもうお分かりでしょう。「障がい者」や「障碍者」と表記をずらすことは、問題の先送りにすぎません。そうした「配慮」の背後にあるのは、「個人モデル」でとらえられた障害であるように見えるからです。むしろ「障害」と表記してそのネガティブさを社会が自覚するほうが大切ではないか、というのが私の考えです。(p. 211 )

 

 

 

 

ケアラー・オーストラリアが「終末期ケアの研究にケアラー視点を」

www.miragenews.com

ずっと「死ぬ権利」の周辺の議論を追いかけてきて、

そこに「家族」への視点がほとんど欠落していることに

疑問を感じている。

 

家族ケアラーの視点からこの問題を考えてみる必要があるのでは、

ということを最近考えている。

河合隼雄 小川洋子『生きるとは、自分の物語をつくること』

河合隼雄 小川洋子『生きるとは、自分の物語をつくること』(新潮社 2008)

 

小川:……

 人は、生きていくうえで難しい現実をどうやって受け入れていくかということに直面した時に、それをありのままの形では到底受け入れがたいので、自分の心の形に合うように、その人なりの現実を物語化して記憶にしていくという作業を、必ずやっていると思うんです。小説で一人の人間を表現しようとするとき、作家は、その人がそれまで積み重ねてきたきおくを、言葉の形、お話の形で取り出して、再確認するために書いているという気がします。

 臨床心理のお仕事は、自分なりの物語を作れない人を、作れるように手助けすることだというふうに私は思っています。

(p.45-6)

 

河合:患者さんは、実際自殺するほうへ行かれますからね。それでも僕がその人のために物語を作ることはない。その点は、小説家がしていることと全然違います。その違いは、ちょっと面白いところですね。

(p. 48)

 

小川:質問する側が納得したくて、何か言ってしまう。

河合:そう、質問する側が勝手に物語を作ってしまうんです。下手な人ほどそうです。「三日前から学校行ってません」と言うと、「三日か。少しだね。頑張れば行けるね」とか。これから百年休むつもりかもわからないのにね(笑)。

……

河合:相手を置き去りにして、了解するんです。それで「お父さんとかならんもんかねぇ」とか勝手なことを言う。相談に来た子は、自分の世界と違うことが起こっているから、ますます無口になります。それで最後に、

「まあ、頑張りなさい」でおわり。

小川:納得しているのは先生だけなわけですね。患者さんを置き去りにする。患者さんの持っている深い井戸に、付き添っていく途中で降りてしまうという感じですね。(p.58-9)

 

河合:いや、僕は、女性だから書けたと考えています。なぜかというと、それぞれの時代にはその時代のスタンダードな物語があって、その物語は、男のためのものだったから。紫式部が『源氏』を書いた頃、男には出世していくという物語があった。特に殿上人は、次の正月に自分が何の位になるかっていうことが最大の関心事で、それに乗って生きていた。男はみんなそうやって生きていたから、自分で作る必要がなかった。女の人でも、身分の高い人には、スタンダートな物語があった。……

 ところが、紫式部は身分としてそのスタンダードには乗れない立場なわけです。だけど、経済的な心配はない。財力がある、というのは、大事なことです。そして平仮名がある。こういう条件の中で最初の物語が出来たというのが、僕の考えなんです。あの頃は男は文章は全部漢文で書いていましたからね。

小川:漢文というと、公式文書みたいなものでしょうか。

河合:ええ。男たちが書いている文章は「誰それが宮中に行った。天皇は元気であった」とか、だいたいお決まりのことです。それは漢文で全部書ける。でも、気持ちを書こうと思ったら日常使っている大和ことばでしょ。それで平仮名が出てくるわけです。……(p.76-8)

 

河合:面白いですよ。僕のとこに相談に来る方の中で、三対三で見合いをしたんです。その結果、実にうまい相手を選んでいるんです。

 うまいというのは、一見悪いことのようにも見えるんです。性格がまるっきり反対やとか、趣味が全然違うとか、結婚してうまく行くためには悪いことのように思える。ところが、実はものすごくええことなんです。その人の成長という点から見たら「ええ人選んでいるなぁ」と。(p.85)

 

河合:……人間は矛盾しているから生きている。全く矛盾性のない、整合性のあるものは、生き物ではなくて機械です。命というのはそもそも矛盾をはらんでいるものであって、その矛盾を生きている存在として、自分はこういうふうに矛盾しているんだとか、なぜ矛盾しているんだということを、意識して生きていくよりしかたないんじゃないかと、この頃思っています。そして、それをごまかさない。

……

河合:僕の言い方だと、それが「個性」です。「その矛盾を私はこう生きました」というところに、個性が光るんじゃないかと思っているんです。(p.104-5)

 

 

河合:カウンセリングは、ちゃんと話を聴いて、望みを失わない限り、絶対大丈夫です。でも、例えば「先生、次は学校行きますよ」「嬉しい、良かったね」っていうやりとりが何度あっても、やっぱり行けない。それでこちらが内心望みを失うとするでしょう。そうしたらもう駄目なんですよ。「アカンかったわ」と言われた時に、こちらがちゃんと望みを持っていることが大事なんです。

小川:まだまだ大丈夫っていう、望み。

河合:「行けなかった」と言った時「でも行けるよ」って言うたら、行けなかった悲しみを僕は受け止めていないことになる。ごまかそうとしている。「そうか」と言って一緒に苦しんでいるんやけど、望みは失っていない。望みを失わずにピッタリそばにおれたら、もう完璧なんです。だけどそれがどんなに難しいか。

(p.112)

 

 

NZの国民投票(9月)で問われる the End of Life Choice Act 2019 安楽死と自殺幇助の両方をassisted dying

https://www.referendums.govt.nz/endoflifechoice/faq.html

 

法文は 薬物を医師またはナースプラクティショナーがgive、患者は recieveで通されているが、投票前のQ&Aには以下の下りがあり、経口、経管のいずれも、自力で、または医師またはナースプラクティショナーにより、の4つの選択肢から選ぶことができる。

 

 

How will assisted dying medication be administered?

An eligible person can choose 1 of 4 options for how they wish to receive assisted dying medication.

  1. Ingestion, triggered by the person.
  2. Intravenous delivery, triggered by the person.
  3. Ingestion through a tube, triggered by the attending doctor or nurse practitioner.
  4. Injection, administered by the attending doctor or nurse practitioner.