伊藤亜紗『見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)

……視覚をさえぎれば見えない人の体を体験できる、というのは大きな誤解です。それは単なる引き算ではありません。見えないことと目をつぶることとは全く違うのです。

 見える人が目をつぶることと、そもそも見えないことはどう違うのか。見える人が目をつぶるのは、単なる視覚情報の遮断です。つまり引き算。そこで感じられるのは欠如です。……

 それはいわば、四本脚の椅子と三本脚の椅子の違いのようなものです。もともと脚が四本ある椅子から一本取ってしまったら、その椅子は傾いてしまいます。壊れた、不完全な椅子です。でも、そもそも三本脚で立っている椅子もある。脚の配置を変えれば、三本でも立てるのです。

 脚の配置によって生まれる、四本のバランスと三本のバランス。見えない人は、耳の働かせ方、足腰の能力、はたまた言葉の定義などが、見える人とはちょっとずつ違います。ちょっとずつ使い方を変えることで、視覚なしでも立てるバランスを見つけているのです。

……

 異なるバランスで感じると、世界は全く違って見えてきます。つまり、同じ世界でも見え方、すなわち「意味」が違ってくるのです。(p.29-31)

 

……見える人が見ない人に対してとる態度は、一般的にはどうしても「情報」ベースになりがちだからです。そこに「意味」ベースのかかわりも追加していきたい、という意図が本書にはあります。

「情報」ベースの関わりとは何か。乱暴に図式化してしまえば、それは福祉的な関係です。見える人が見えない人に必要な情報を与え、サポートしてあげる。見える人が見えない人を助けるという関係がこの福祉的な発想の根本にはあります。(p. 35)

 

 情報ベースでつきあう限り、見えない人は見える人に対して、どうしたって劣位に立たされてしまいます。そこに生まれるのは、健常者が障害者に教え、助けるというサポートの関係です。福祉的な態度とは「サポートしなければならない」という緊張感であり、それがまさに見える人と見えない人の関係を「しばる」のです。(p. 39)

 

……視覚を使わないと得られる情報の量はどうしても限られてしまいますが、だからこそ生まれる意味がある。見えないからこその、世界のとらえ方、体の使い方がある。(p. 46)

 

例として、

坂道。見える人には道。進むべき方向。見えない人は山を下っていくイメージ。

富士山。見える人は二次元、見えない人は三次元でイメージしている。

太陽の塔。見える人には表裏がある。見えない人には死角がない。

つまり、見える人は視点による表裏、外と内などのヒエラルキーがある。見えない人にはそれらは等価。

 

視覚障害者が例えば、本棚から目当ての本を探し出すのを見たときに「すごい」と言うことについて)

 まずひとつめの問題は、「すごい!」という驚嘆の背後には、見えない人を劣った存在とみなす蔑みの目線があることです。……

……本棚から本を探し当てることは、見えている人にとっては「当たり前」の行為です。しかし、見えない人にとっても、それは同じように「当たり前」のことのです。自分にとって当たり前のことを「すごい」と言われたら、誰だって「おいおい、ナメないでおくれよ」と思うでしょう。

 だから私は、序章にも書いたように、「すごい!」ではなく「面白い!」と言うようにしています。……「へえ、そんなやり方もあるのか!」というヒラメキを得たような感触。「面白い」の立場にたつことで、お互いの違いについて対等に語り合えるような気がしています。(p. 85-6)

 

 いずれにせよ、事故や病気によって何らかの器官を失うことは、その人の体に、「進化」にも似た根本的な作り直しを要求します。リハビリと進化は似ているのです。生物は、たとえば歩くために使っていた前脚を飛ぶために作り替えました。同じように、事故や病気で特定の器官を失った人は、残された期間をそれぞれの仕方で作り替えて新たな体で生きる方法を見つけます。(p.113-4)

 

 進化の過程を観察することはできないけれど、進化することを意識して体を扱うことは可能です。進化しうるものとして自分の体をまなざすこと。それこそ当たり前の体を離れて、見えない人の体に「変身」することに他なりません。そしてそれこそが、本書の冒頭で述べたような「特別視」を超えた関係を生み出すのではないでしょうか。(p.115)

 

 先に「しょうがいしゃ」の表記は、旧来どおりの「障害者」であるべきだ、と述べました。私がそう考える理由はもうお分かりでしょう。「障がい者」や「障碍者」と表記をずらすことは、問題の先送りにすぎません。そうした「配慮」の背後にあるのは、「個人モデル」でとらえられた障害であるように見えるからです。むしろ「障害」と表記してそのネガティブさを社会が自覚するほうが大切ではないか、というのが私の考えです。(p. 211 )