猪瀬浩平『分解者たち 見沼田んぼのほとりを生きる』

 周辺地域に開発の波が襲うなか、見沼田んぼは1965年に埼玉県によって開発が規制された。その結果、これまで開発計画も何度も持ち上がったが、県による開発規制と農地法・農業振興法・都市計画法・河川法の規制、そして県民による開発反対運動によって、農的緑地空間としてのあり様を大部分において留めている。

 一方、見沼田んぼの周りの地域は、首都圏の一部として開発され、多くのことが変わっていった。多くの人がそこに住むようになり、住宅やその生活を支える施設が作られるようになった。田んぼや畑は宅地に変わり、あちこちで建築作業が行われ、砂埃が舞うようになった。鶏や、生きものの声は響かなくなった。多くのものが、多くの人間の暮らす空間から離れた、なかなか目につかないところに追いやられていった。たとえばそれはごみであり、排泄物であり、遺体であり、障害者であり、鶏や乳牛などの家畜、様々な生きものであり、そして農的営みそれ自体であった。

 開発を規制された見沼田んぼは首都圏開発の周縁であり、そこには首都圏の中心部では居場所を失ったものたちが押し寄せた。それは例えば、下水処理施設であり、ごみ焼却場だった。火葬場が計画されたこともある。なかには、時間が経過していくうちに次第に風景に溶け込んでいくものもあった。たとえば、見沼田んぼ北西部にある市民の森・見沼グリーンセンターは、おともと大宮市のごみ収集場所だった。大量に捨てられるごみは埋め立てられ、そこに木々が植えられ、そして「市民の憩いの森」として整備された。

 私に見沼田んぼをただ美しい農村景観として描くのを躊躇わせるのは、首都圏/東京という歪に肥大化した身体の肛門から排出されたものたちである。

 そして、私が見沼田んぼに惹きつけられるのは、それらの存在があるからだ。排出されたものたちが、思わぬ形で出会い、ぶつかり、交わる、すれ違う。そこでものとものとが交わり、熱が生まれる。

(p. 28-9)

 

 良太氏の介助者の集いに参加したことがある。そのなかで、もっとも印象に残ったのは介助者の山口裕二さんの話だった。

 良太氏と彼が、共同住宅から買い物にいったその帰り道、突然良太氏が大きな声を出しはじめた。その日は山口さんも大きな声を出したい気分だったそうで、彼も大きな声を出して追随した。すると、それにつられて、後ろを歩いていた三人組の男子中学生が大きな声を出した。さらに、前から来た女子中学生も大きな声を出しはじめ……という感じで、最終的に十数人で大きな声を出し、そして最後、山口さんが「じゃあな、みんな!」と手をふってさわやかに中学生たちと別れた。二度と再現できないであろう、路上のロックな瞬間だった、と山口さんは語った。

(p. 88-9)

 

 東京の郊外としての埼玉に移住してきた「意識」ある市民によって始まった「障害者運動」は、彼ら自身を埼玉に移住させた農業の近代化、農村の開発という波が、彼らの支援の対象である「障害者」を生み出していることに気づく。その気づきのなかで、彼らの運動は障害のある人の自己決定や自立生活を求める運動と一線を画していった。そして社会を劇的に変化させるのではなく、差別をも含みこんだ多層的な関係を日々の暮らしと交わりのなかで、編みなおしていくという思想を手に入れていった。それはまた、今、暮らしと仕事、学びの現場において様々に分断されようとする私たちが、それでも様々な存在と手をつなぎ続けるための知恵を示している。

(p. 212)

 

 朝鮮学校から芝川を下っていけば、福祉農園がある。焼肉交流会のなかで挨拶をする機会をいただき、これから夏草が生えてくるので、是非草取りに来て欲しいと私は語った。大切なことは、夏草の間にある。お互いの歴史に向かうこと、対話を続けること、その人間同士の関係だけでなく、ともに気にかける土地をもつこと、ともに時間を過ごす大地のあることに、私は未来へのかすかな希望を抱く。

 時間をじっくりかけながら、すれ違い続けた歴史を分解する。そのことを、私たちは見沼田んぼで続ける。

(p. 349)

 

・・・津久井やまゆり園で起きた事件について私が書いた文章に目を止めてくれた高橋さんは、雑誌『支援』の編集委員の人々と一緒に福祉農園にやってきた。私が寄稿した『支援』の7号の編集後記で、私は高橋さんの兄が障害をもち、福島県西郷村の施設で暮らしていることを知った。津久井やまゆり園で起きた事件をめぐる人々の反応と、2010年の原発事故をめぐる人々の反応を重ね合わせた高橋さんの文章は私の心を揺さぶった。それとともに、施設で暮らす家族がいることを想像したこともなかった私は、高橋さんとの出会いで施設に家族が暮らすということはどういうことなのかを考えるようになった。やがて高橋さんは彼の子どもたちと一緒に福祉農園にやってくるようになり、彼の長女は私の長女と友達になった。それと相前後して、この本の企画がはじまり、やがて森田さんも合流しながら、この本は厚みをもっていった。

(p. 394)