幸田文『生きかた指南』(平凡社)

「重い母」

 

 お母さんが重くて困る、ということをこの秋2度ほど続けて聞いた。

……

 濃すぎる愛情を、思いという表現で言われたのが「いまは、軽さのよさ、の時代だ」と有難がっている私に、強くひびいた。

 私が有難がっているのは、身のまわりの道具類がいまは軽くこしらえられていることなのである。むかしはなんでも重かった。第一が水で、つるべやポンプで汲む重さ、くんだ水は水桶にうけるのだが、一年中乾いたことのない手桶の重さは腕にこたえる。その水を水がめにためるのだが、かめには水ごけがつくし、それを洗う作業の重さ。

……

 若いお嬢さんたちが、うちにいるのももう少ないのだから、母とはよりよい付き合いで過ごし、さらさらとした後味を残していきたい、というのは心してきかなければいけない事ではなかろうか。母の愛はぜひ必要なものだが、母のみならず愛情はすべて、濃過ぎれば悩みに沈むし、至れりつくせりの世話は人の心に重しをかける。私たちは軽快な愛情というものになれていないが、軽く使い勝手のいい世帯道具を手にする時、重い母と言われないように一考するのがいいと思う。

(1965年 61歳)

p.153-5

 

●この時代の早くから「母が重い」と感じ、そのままが言葉にされていたこと、それに対する幸田文の捉え方の鮮やか。

 

……つまり出来る人は、人から賞賛もされますが、また人の気をそこない、恨みや不快も買うのです。出来るというのはいいことに違いないけれど、同時に人を傷つけ、自分をも傷つけてしまういやらしさをも伴っている、というわけです。ですから、出来れば出来たで、その後始末がいるのです。心して慎む、という後始末です。

……

 なににあれ、ものができなければ困ります。出来れば出来たで、いやらしさが附着し、人ををも自分をも不快にします。出来たら、その後始末をうまくつける――そんな人が手がたい仕合せを積み上げていくひとなのではないでしょうか。仕合せとは、終わりの納まりのいいことかと思います。

p. 231-5